連合国の旧日本領土処理に関する合意書は、竹島の主権を韓国に移転するとしたものである(全文はこちらをクリック)。韓国では、この合意書(以下、「合意書草案」という)について「条約草案」や「連合国の合意の証拠」とする解釈がなされているようである。しかし、このような解釈は時系列的に矛盾するとともに、竹島を放棄領土に含めなかったサンフランシスコ条約の内容とも整合しない。
1.合意書草案の位置づけ
まず、合意書草案直前の1949年11月2日の平和条約草案の領土規定について整理してみる。当条約草案では日本の領土範囲を規定した条項と共に日本が処分する領土が規定されており、処分方式は地域ごとに「割譲」と「権利・権原の放棄」の2種類に分かれている。(右図参照)- 台湾等:中国に割譲する。(Cedes to China)
- 南樺太・クリル諸島等:ソ連に割譲する。(Cedes to the Union of soviet Socialist Republics)
- 朝鮮半島等、小笠原諸島、琉球諸島:全ての権利と権原を放棄する。(renounces all right and title)
1949年11月19日 11月9日の条約草案に関する詳細な意見
修正された3条に続いて、「3条で記述された領域外において、日本は割譲又は全ての権利、権限、権原及び請求権を放棄する」で始まる条項を挿入することを提案する。
(11月2日の草案において、新たな主権者への直接的な割譲に依拠しない日本による放棄の方法が8条から12条に認められることに留意する)
我々は、11月2日の条約草案にある第4条から12条を削除し、日本の管轄下にあった従前の日本領土の処分に関する補足的な文書に日本を除く連合国間で合意することを提案する。このことにより、条約本体での直接的な割譲の必要性をなくすとともに、日本がそのために拘束され続ける必要がなくなる。
補足文書における台湾の扱いについて、カイロ宣言後に発生した中国の不安定な状況が、島の機械的な処分をも不可能にしていることを根拠に、国連信託統治の賛否を決める住民投票を考慮するよう提案する。(11月2日の草案に脚注の議論は、中国が平和条約に調印しない場合を想定したものであるが、台湾の処分の決定における重要な政治的かつ戦略的要因の処理としては不適切と思われる)
シーボルドは右図のように、「1.平和条約での日本の放棄」「2.補足文書で連合国が放棄領土に対する処分を決定」と2段階による処分方法を提案した。このような提案を行った理由として、連合国内の東西陣営間の対立による平和条約締結の遅延を恐れたためと考えられる。合意書草案の前文は、以下のとおりとなっており、シーボルドの処分方法の提案に従って作成されたものであることがわかる。
連合国の旧日本領土処分に関する合意書1950年に日本と締結した平和条約に関連する連合国及び関連する国家は、条約により日本が放棄した領土について、以下のとおり処分する。
2.合意書草案の作成年月日とベースとなった条約草案
合意書草案を発見したシン・ヨンハは1950年以降に作成されたものとしていたが、chaamieyさんのサイトによると李碩祐の研究では1949年12月19日の作成とし、「韓国の独島領有権が再び認められたもの」と解釈しているようである(李碩祐の論文を見ていないので日付を特定した根拠は不明)。前述のとおり合意書草案は条約の放棄領土に対する処分を決定するものであり、条約における放棄領土と整合してなくてはならない。合意書草案にある「豆満江の河口から約三海里にある国境の終点・・・( the seaward terminus of the boundary approximately three nautical miles from the mouth of the Tumen River)」との表現は、1947年11月2日と1949年12月29日の条約草案にしかなく、この何れかの条約草案をベースに補足文書として合意書草案が作成された。また、合意書草案にある「連合国が竹島の主権を韓国に移転する」ためには、日本が平和条約で竹島の処分権を連合国に移転済みでなければならない。条約草案の変化を時系列に整理すると以下のとおりとなる。- 1949年11月 2日条約草案:竹島が放棄領土に含まれる
- 1949年12月29日条約草案:竹島が放棄領土から除外
この内、合意書と整合するのは11年2月の条約草案であり、12月29日の条約草案とは論理矛盾をきたす。よって、この合意書が作成されたのは、シーボルドの詳細意見書の1949年11月16日~竹島を放棄領土から除外した条約草案の1949年12月29日までの間となり、李碩祐の比定した1949年12月19日である可能性が高い。
3.合意書草案への連合国の合意
独島学会ではこの条約草案に48カ国の同意があったように解釈しているように見受けられるが、連合国が合意した事実は確認されていない。合意は国を代表する者による署名等によってなされなければならない(ウィーン条約法条約第11条〜16条)。しかしながら、この合意書草案に対して、署名等の行為がなされた事実は存在しない。合意がないことは、この合意書草案の末尾にある合意の日付及び合意場所の記入欄が空白のままであることからもわかる。Done at the city of ------------in the English language,this -------day of------,1950.また、朝鮮半島の処分が書かれた第3条にも「・・・」と省略があり、この合意書が草案としても成熟したものでないことがわかる。
Dagelet Island (Utsuryo To, or Matsu Shima), Liancourt Rocks (Takeshima), and all other islands and islets to which Japan had acquired title lying outside … and to the east of the meridian 124゜15´E. longitude,
更に、アメリカが他の連合国に平和条約に関する意見照会を行ったのは、1950年9月11日の条約草案を要約した「覚書」が最初であり、それ以前に作成された条約草案等について他の連合国に配布・周知された事実は確認できない。「合意」があったとするのであれば、どの国が、いつ、どこで、どのような手段で合意したのかを示すのが学者として最低限の責務である。
4.合意書草案後の領土処分方法の推移
竹島を日本領とした1949年12月29日条約草案であるが、領土処分方法については台湾や南樺太等は従来どおりの中国等への割譲による処分方法となっている。しかしながら、1950年9月11日に作成された条約草案において「日本は、英国、ソビエト、中国、米国によってなされる将来的(to the future)な合意を承認する」と割譲方式がなくなると共に合意を将来に先送りした。11月24日の 対日講話7原則では、「条約発効後1年以内に決定されない場合には,国際連合総会が決定」と、連合国内で合意ができなかった時の対処が追加された。更に、条文が「全ての権利・権限を放棄する」と修正され、連合国の合意の存在自体が削除され条約成案となった。例えば「朝鮮の主権を韓国に移転する」とする処分に東側諸国が同意するわけもなく、現実問題として日本が放棄した後の領土処分については何ら決定することはできなかったのである。結果的にサンフランシスコ条約では、シーボルド意見書における1ステップ目(日本による領土放棄)のみが実行され、連合国による放棄領土の処分は行われなかった。なお、連合国内の紛争のため、サンフランシスコ条約で放棄領土の処分を明確にできなかったことは、ダレスも講和会議の演説で述べている。
5.サンフランシスコ条約の領土処分に関する国際法学者の解釈
国際法学者のブラウンリーは、サンフランシスコ条約の領土処分について「連合国に処分権を与えた」とし、例えば台湾について連合国が処分権を行使しなかったため主権が未確定とした。また、その後の連合国の黙認・承認によって台湾の主権が凝固されうるとしている。このブラウンリーの解釈は、シーボルドの提案した「放棄→処分」の2段階による処分の内、2段階目の処分がなされなかった事実とも合致している。
<修正履歴>
・Matsuさんの指摘を受け合意書3条の「・・・」に関する記述及び「豆満江の河口から約三海里云々」の追加と修文(2013/05/07)
6.韓国側の解釈の問題点
恐らくラスク書簡を否定するためであろうが、事実に依拠しない拡大解釈を行っている。この合意書草案に連合国が合意したとするのであれば、署名等によって連合国が合意した事実を証明することが必要である。しかし、そのような事実を存在しない。また、最終的に連合国および日本が合意したサンフランシスコ条約成案では、放棄領土から竹島は除外されている。ラスク書簡が重要なのは、サンフランシスコ条約成案と同じ文面(韓国に配布された1951年3月草案以降、朝鮮の放棄領土に関する文案は修正されていない) に対する条約起草者の意見だからである。時間を遡及し条約成案を否定する合意書草案と異なり、ラスク書簡は条約成案と整合しているのである。<修正履歴>
・Matsuさんの指摘を受け合意書3条の「・・・」に関する記述及び「豆満江の河口から約三海里云々」の追加と修文(2013/05/07)