文書はおそらく1877年か1878年に書かれたものですが、1881年にこうした調査の経緯を記した北澤正誠の「竹島考証」の下巻に載っています。以下はその書き起こし文と口語訳です。
(書き起こし)
第二十一号 松島巡視要否ノ議 外務省公信局長 田邊太一
甲云壱日開否ノ略定リテ而後今日視察ノ要否ヲ論スヘシ 聞クカ如キハ松島ハ我法人ノ命ゼル名ニシテ其実ハ朝鮮蔚陵島ニ属スル于山ナリ 蔚陵島ノ朝鮮ニ属スルハ旧政府ノ時一葛藤ヲ生シ文書往復ノ末永ク証テ我有トセラルヲ約シ載テ両国ノ史ニ在リ 今故ナク人ヲ遣テコレヲ巡視セシム 此ヲ他人ノ宝ヲ数フトイフ 況ンヤ跡隣境ヲ侵越スルニ類シ我ト韓トノ交漸ク緒ニ就クトイヘトモ猜嫌猶末永ク除カサルニ際シ如此一挙ヨリシテ再ヒ一隙ヲ開カンコト尤交際家ノ忌ム所ニ出ツルオヤ 仮令該島ヲシテ韓籍ニ属セストモ南無人島ヲ開キ琉球ヲ藩トスルモ識者或ハ其宜ニ非サルヲ論ス 現今ノ務方ニ国脈ヲ静養スルニアリ 鮮ヲ煎テコレヲ擾ス 計ノ得ルモノナラス 松島断シテ開ク能ワス 又開クヘカラス 其不能不可ヲ知テコレヲ巡視スル豈無益ナラサランヤ 況ヤ後害ヲ醸サントスルオヤ
乙云開否ノ略ハ視察ノ後ニ非サレハ定ムル能ハス 版図ノ論今其実ヲ視ス 只ニ蠧紙上ニ拠信スルハコレヲ可トイフヘカラス 況ンヤ我近海ニアリ 我民ノ韓ノ内地ニ航スルモノ露ノ藩地ニ航スルモノ必由ノ途タレハ其地ノ状形ヲ悉サスシテコレヲ不問ニ措ク我吾務ヲ尽ササルニ幾シ 故ニ該島ハ勿論所謂竹島ナルモノモ亦巡視シテソノ今日ノ状ヲ詳知スヘシ 巡視ハ必要スル所ナリ サレトモ英露等ノ船ヲ雇ヒ僅ニ一日半日ノ碇泊ヲナシ一人二人ノ官吏上陸視察ストモ墓々敷事ナキハイフヲマタス 且今日ヲ失フテハ再ヒスヘカラサル機会ナリトイフマテニモアラサレハ西南勦定ノ後海軍モ無事閑暇ノ時アルヘケレハ其時ニ至リ測量製図等ニ熟セル海軍士官ト生産開物ニ明カナル官吏トヲ派差シテコレヲ検セシメ而後コレヲ書図ニ徴シ古文書ニ照シテ初メテ松島ノ蔚陵島ノ一部ナリヤ果テ于山ナリヤ又別ニ一ノ無主地ナリヤヲモ定得ヘク将渡来開墾シテ利益ノ有無ヲモ考得ヘシ故ニ巡視ノ後ニアラサレハ開否ノ議ヲ定メカタシ 松島必巡視セサルヘカラサル也 然レトモ瀬脇氏ノ議ノ如キハ敢テコレヲ可トセス必将ニ它日ヲ竢アルヘシ
丙云英国新聞ニ露国ノ東略ヲ預妨セントテ既ニ太平海北部ニ一ノ海軍屯站ノ地ヲ要セントスルノ論アリ 松島等ノ如キ或ハ彼カ注目スル処タルモ知ルヘカラス 且聞該国官船シルビヤ長崎ヨリ韓地ニ航セリト 当時我訳官乗組居ラサレハ何ノ地ヲ航通セシヤヲ知ルニ由ナシ 或ハ該国ヲモ予メ巡視セシメンコト必無トモ信シカタシ サレハ今ニモ英公使或ハシカラストモ他ヨリ該島ニ就キ云々ノ論アルトキ一切知ラスト答ヘンハ頗ル忸怩ナキアタワス 所謂不都合ナルモノナリ 故ニ今日ノ策ハ甲乙ノ所論ノ如キ開否等ノ議ニ渉ラス聊ニテモ該島ノ現状ヲ知ルコトヲ急務トセリ 故ニ誰ニテモ其地ヲ巡視スヘキノ望アルモノ何船ニテモ其近傍ヲ航シ甘ンシ寄椗セントイフモノアレハコレヲ許可シコレヲ雇フヲ可ナリトイヘトモソノ効ヲ収ムルモノハ只ニ前ニ述ル所ノミニ止ルモノナルハ計算上多費ヲ要スルコトハ妙トセス 須ク如此効ヲ収ムルコト若干ノ価アルヘキヲ算シ若干金ヲ瀬脇氏ニ付シ是額内ヲ以テ此挙ヲナスヘキヲ命セハ計ノ得ルモノニ幾カシ 我邦人外国ノ船ニ搭シ韓地ニ至リシトテ韓政府ノ猜嫌ヲ増サントノ過慮ハナキニハラストイヘトモ該島ニ在ル韓民(仮令官吏アルモ)邦人ト外国人トヲ区別スルノ眼晴モアルマシケレハ断然交隣ノ誼ニ於テハ妨碍ヲ生セサランコトヲ信ス
(口語訳)
第二十一号 「松島を巡視する必要があるかどうかについて」 公信局長 田邊太一
意見甲:まるで一旦開発するか否かの概略が定まってから視察の要否を論ずればよいと言っているように聞こえるようだが、松島は我が国の邦人が名付けたもので、実体は朝鮮の朝鮮の蔚陵島に屬する于山である。蔚陵島が朝鮮に帰属するということは、徳川時代に交渉(葛藤)があり、我が国の所有であると証明する文書をやりとりした結果のことであり、それは両国の歴史に記載されていることである。それを今になって理由もなく人を派遣して巡視させることは、他人の宝を数えるようなものである。我が国と韓国とはようやくその交渉が始まったものの、猜疑心がなお除かれておらず、こうした一挙一動でまた間隙が広がることは、両国間の国交を進めている者達にとっては是非とも避けたい事態である。まして、イギリスやロシアの船を雇って赴くことは、彼等が最も忌み嫌うことである。例えその島が韓国に属さないとしても、全くの南の無人島を開発して琉球藩としても識者はそれは間違いであると言うだろう。今我々がすべきことは国を静養させることに務めることで、朝鮮を刺激してかき乱すことは、決して得策ではない。松島は断じて開発できないし、またすべきではない。それを知りながら巡視することは、無益であるのみならず、後々に害をもたらすことになるであろう。
意見乙:松島開拓の是非は視察をした後でないと、決定できない。版図について議論するためにはそれを実際に確認しなければ、紙上に書かれたものだけを元にすることは、やってはいけない。ましてや、我が国近海にあり、日本国民が韓国内地に渡航したり、ロシアの領域に渡航するときに必ず経由するわけであり、そのような島を実際に調べもせずにそのことを不問にするなどということは、我々が公務員としての務めを尽くしていないのも同然である。ゆえに、当該の島(松島)はもちろん、竹島という島についても巡視して、今日の実情を詳しく調べるべきである。巡視は必要であるとはいっても英露の船を雇ってたった一日や半日くらい碇泊し、一人、二人の官吏を上陸させて視察しても大した成果は得られないのは言うまでもない。ただし、今機会を失えば、再びその機会がめぐってこない、と言うほどのことでもないので、西南の役を平定した後、海軍に暇が出来れば、そのときに測量製図に熟練した海軍士官と生産物情報に明るい官吏を派遣して調べさせその後に、書図に認めて古文書に照らし、初めて、松島が鬱陵島の一部なのか、それとも于山なのか、あるいは全く別の島なのか、を決定すべく、また、将来開墾して利益がでるかどうかも考えなければならない。ゆえに、巡視をした後でなければその開拓の是非を決定することが出来ず、松島を巡視するより他の方法はない。しかし、瀬脇氏の意見のようにあえて巡視をよしとしないのは、必ず後々悔いが残ることになるであろう。
意見丙:イギリスの新聞にロシアの極東拡大を予防するために既に太平洋北部に海軍駐屯地が必要であるとの議論があった。もしかするとイギリスが松島のような島に注目するかも知れない。また、英国官船シルビヤ号が長崎から韓国に渡航したが、そのとき我が国の通訳が乗船しておらず分からないのだが、、松島を通過したかもしれない。或いは英国があらかじめ巡視させていた可能性が全く無いとも考えられず、今にも英国公使に限らず他の人が当該の島について問い合わせをしてきたときに一切知らぬ、と答えるのは大変恥ずかしいだけではなく、大変不都合なことである。ゆえに今まさにすべきことは、松島開拓についての甲乙の意見や論議に関わらず、当該島の現状を知ることが急務である。ゆえに、誰であってもその地を巡視する意志のあるもの、又どの船を使うにしろ島の近くに渡海して碇泊する意志のある者があればそれを許可して、雇うことは可能である。しかし、これによる効果は前に述べた所にとどまるのに、計算上多額の費用を要する。対費用効果を調べてから瀬脇氏に若干の金額を渡し、その金額内で仕事を任せてみてはいかだだろうか。我が邦人が外国の船に搭乗して韓国へ行けば韓国政府の猜疑心が増す可能性も無いことはないが、当該島に在住の韓民(官吏が駐在しているが)が、邦人と外国人とを区別する眼識を持っているはずも無く、友好の妨げには全くならないと信じる。
この文書からわかるように、日本人は松島がどこにあるのか、はっきりとわかっていませんでした。しかし、「鬱陵島の于山島である」という意見がありました。韓国側の歴史学者の中に、このことをもって日本人が于山島を竹島(Liancourt Rocks)であると考えていた、と主張しますが、日本で作成された地図は全て、”于山島”を鬱陵島の隣島の位置に描いています。Liancourt Rocksではありません。実際、日本側作成の地図にはこの”于山島”を鬱陵島の西側に描いたものさえあるのです。つまり、Liancourt Rocksであったはずがないのです。その島は鬱陵島の東南92kmのところにあるのですから。
以下は、于山島を描いている日本の地図です。
地図1) 朝鮮国細見全図(染崎延房編著 1873)
地図2) 朝鮮国細見全図(染崎延房編著 1873) 鬱陵島附近拡大図
地図3) 朝鮮全図(海軍水路寮 1873)
地図4) 朝鮮全図(海軍水路寮 1873) 鬱陵島附近拡大図図
地図5) 原版朝鮮全国之写(陸軍編纂 1877)
地図6) 原版朝鮮全国之写(陸軍編纂 1877) 鬱陵島附近拡大図
地図7) 明治二十七年 朝鮮全図(柴田源三郎編1877)
地図8) 明治二十七年 朝鮮全図(柴田源三郎編1877) 鬱陵島附近拡大図
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