tag:blogger.com,1999:blog-26948035.post5823740598156271295..comments2024-01-26T17:48:29.804+09:00Comments on Dokdo-or-Takeshima?: 1905 June 15th: The Report of Takeshima (Liancourt Rocks) by the Captain of HashidateGerry Bevershttp://www.blogger.com/profile/14311939520870098017noreply@blogger.comBlogger31125tag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-70686859727253748492008-10-17T18:01:00.000+09:002008-10-17T18:01:00.000+09:00別件についてmatsuさんから教えていただいたところ、橋立戦時日誌が田中さんのサイトにあるのを発見し...別件についてmatsuさんから教えていただいたところ、橋立戦時日誌が<A HREF="http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/" REL="nofollow">田中さんのサイト</A>にあるのを発見しました。暫く見無いうちに、随分充実しているようです。<BR/><BR/><A HREF="http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/hashidatewarship-1905/" REL="nofollow">橋立戦時日誌</A>Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-14275183298048687422008-10-17T03:40:00.000+09:002008-10-17T03:40:00.000+09:00補足 p477では、「卸シ」(おろし)でしたがp479では、 「艤シ」でした。それと、森田中尉の「森...補足<BR/> <BR/>p477では、「卸シ」(おろし)でしたが<BR/>p479では、 「艤シ」でした。<BR/><BR/><BR/>それと、森田中尉の「森」は異体字というより<BR/>比較的一般的な、くずし字ですね。<BR/><BR/>韓国人の漢字識別能力の限界ですかね。(笑)<BR/><BR/><BR/><BR/><BR/> 小嶋日向守https://www.blogger.com/profile/07893820564918155381noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-55914148974291941262008-10-17T03:11:00.000+09:002008-10-17T03:11:00.000+09:00うーむ、なんとまあ。更に元となった「橋立戦時日誌」の原本も見られるとは。些末なことに執着して恐縮です...うーむ、なんとまあ。更に元となった「橋立戦時日誌」の原本も見られるとは。<BR/><BR/>些末なことに執着して恐縮ですが、こちらでは、「端舟ヲ卸シテ」してという、一般的な用法になっていました。小嶋日向守https://www.blogger.com/profile/07893820564918155381noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-81412034479679429312008-10-17T01:05:00.000+09:002008-10-17T01:05:00.000+09:00Kaneganeseさんのご指摘の通り、URLをたどって、出所がわかりました。Steve Barbe...Kaneganeseさんのご指摘の通り、URLをたどって、出所がわかりました。<BR/><BR/>Steve Barber氏の投稿<BR/>http://www.dokdo-takeshima.com/dokdo-x-files3.html<BR/><BR/>の下のほうに、軍艦「橋立」の写真とともに、「橋立戦時日誌」の原本があり、そのなかに「軍艦橋立艦長 福井正義」の報告がありました。(2段目の左から2番目から、順に右に)<BR/><BR/>http://www.dokdo-takeshima.com/hashidatedoc6.jpg<BR/>http://www.dokdo-takeshima.com/hashidatedoc7.jpg<BR/>http://www.dokdo-takeshima.com/hashidatedoc8.jpg<BR/>http://www.dokdo-takeshima.com/hashidatedoc9.jpg<BR/><BR/>英訳がありますが、<BR/>Gerry Bevers氏の投稿<BR/>http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/10/1905-jun-japanese-cruiser-surveys.html<BR/><BR/>と比べると、よく似ています。しかし、Steve氏の投稿が<BR/>The Report of Takeshima (Dokdo) Investigation<BR/>となっているのに対し、Gerry氏の投稿では、<BR/>The Report of the Takeshima (Liancourt Rocks) Investigation<BR/>となっているなど、やや違います。<BR/><BR/>写真本に見るとおり、原本は、「竹島(リヤンコルド岩)視察報告」ですから、Steve氏は、恣意的にタイトルを変えています。<BR/><BR/>ところで、このタイトル、「竹島(リヤンコルド岩)視察報告」には、まだ「リヤンコルド岩」がしっかり残っていますね。<BR/>「極秘明治三十七八年海戦史」の活字本では、「明治三十八年六月十五日橋立艦長海軍大佐福井正義ノ提出セル竹島視察報告」と「竹島視察報告」だけになっているのも、やはり、原本を見てはじめてわかることです。<BR/><BR/>「石灰」と「石炭」の問題、それから「六月十二日」という木口技手報告の日付の問題をみても、活字本は、やはり注意が必要だと思います。<BR/><BR/>ところで、この英訳、<BR/>小倉大尉が、Lieutenant Okuura<BR/>森田中尉が、Lieutenant Second-Class Okida<BR/>となっていますが、活字本が「森田」となっているのに、Okidaと読んだのは、原本のこの部分は異体字で書いてあり、読めなかったのかも知れません。<BR/><BR/><BR/>それはさておき、Steve Barber氏は、どうやって、この原文の日本語を、英語にしたんでしょうか?<BR/>たしか、彼はあまり日本語が読めなかったように思いますが。<BR/><BR/>11日づけの「尾崎に帰港」の「尾崎」がOzakiではなく、Ojakiとなっていますから、このなまりかたからして、韓国語の翻訳がどこかにあって、それをさらに英訳したのかもしれませんね。<BR/><BR/>さて、貴重なのは、ここに「橋立」の派遣目的があり、<BR/>「佐世保鎮守府ヨリ竹島ニ派遣スベキ建築科員ヲ送致スル為メ橋立ヲ派遣ス」とあることです。<BR/>http://www.dokdo-takeshima.com/hashidatedoc4.jpg<BR/><BR/>6月5日付の「官報」に、「リヤンコルド岩を竹島に訂正」との訂正文がのってから、わずか5日後に、地の文に「竹島」とあるのは、「リヤンコルド岩」と「竹島」が、混在しつつも、現場に浸透していた、ということでしょうか。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-29720335495001076552008-10-16T02:41:00.000+09:002008-10-16T02:41:00.000+09:00追記また原文では、正しく「石灰」となっていました。追記<BR/><BR/>また原文では、正しく「石灰」となっていました。小嶋日向守https://www.blogger.com/profile/07893820564918155381noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-61032816626555953172008-10-16T02:29:00.000+09:002008-10-16T02:29:00.000+09:00本当に原文が掲げられていたとは、流石、ゲーリーさんですね。原文を見れば、●字も簡単でしたね。「端舟ヲ...本当に原文が掲げられていたとは、流石、ゲーリーさんですね。<BR/><BR/>原文を見れば、●字も簡単でしたね。<BR/><BR/>「端舟ヲ艤シ」でした。<BR/>「タンシュウをギし」と音読するのでしょうが、「はしぶねヲふなよそおいシ」とも訓読できるのですね。うーん。ムツカシイ小嶋日向守https://www.blogger.com/profile/07893820564918155381noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-27676803803523739582008-10-15T22:51:00.000+09:002008-10-15T22:51:00.000+09:00ブログ主はお元気なわけですね。安心しました。ブログ主はお元気なわけですね。安心しました。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-8606289124174300322008-10-15T22:28:00.000+09:002008-10-15T22:28:00.000+09:00みなさんさっき当ブログ主からメールを貰いまして、今忙しくてコメントできないけれどみんなによろしく、と...みなさん<BR/><BR/>さっき当ブログ主からメールを貰いまして、今忙しくてコメントできないけれどみんなによろしく、との事でした。日本語で会話しても大丈夫ですよ。ちなみに、韓国ではもうすぐ外国人講師の契約更新の時期ですので、事情を察して、あまり追求しない様にしましょう。Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-71900646238134226522008-10-15T19:52:00.000+09:002008-10-15T19:52:00.000+09:00私もこのGerryのポストのことを失念していました。さすがGerryですね。Gerry,you al...私もこのGerryのポストのことを失念していました。さすがGerryですね。<BR/>Gerry,<BR/>you already posted the topic of Hashidate. I didn't notice. Sorry and thanks for the posting.pacifisthttps://www.blogger.com/profile/14100903035796287895noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-91292226717455995662008-10-15T14:07:00.000+09:002008-10-15T14:07:00.000+09:00matsuさん貴重なご指摘、ありがとうございます。本当ですね。飲料水のところしか読んでいませんでした...matsuさん<BR/><BR/>貴重なご指摘、ありがとうございます。本当ですね。飲料水のところしか読んでいませんでした。原文画像は、URLを見ると、どこから取ってきたか分かります。<BR/><BR/>Gerryがいつも言うのですが、韓国側が自国に有利だと思って出してくる”証拠”は、実は日本に有利なものが殆どだ、との事です。これなど、まさにその一つですね。感謝しなくてはいけませんね。当時読みこなせず、その内容を把握していなかった上に、すっかり忘れていた自分に憤りを感じていますが。Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-91482535470069374292008-10-15T12:33:00.000+09:002008-10-15T12:33:00.000+09:00サイトの中を検索していて、びっくりしました。この「橋立」の記録は、すでに1年前にGerryさんが、紹...サイトの中を検索していて、びっくりしました。<BR/>この「橋立」の記録は、すでに1年前にGerryさんが、紹介していましたね。<BR/><BR/>Wednesday, October 10, 2007<BR/><BR/>http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/10/1905-jun-japanese-cruiser-surveys.html<BR/><BR/><BR/>Kaneganeseさんの日本語訳<BR/>Tuesday, October 23, 2007<BR/><BR/>http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/10/1905.html<BR/><BR/><BR/>両方とも、コメントがひとつもないので、あまり話題にならなかったんでしょうね。<BR/><BR/><BR/>原文の記録があるのが、とても貴重だと思います。<BR/><BR/>Gerry さんは、どうやってごの画像をゲットしたんでしょうか?Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-15275041377031910512008-10-14T23:14:00.000+09:002008-10-14T23:14:00.000+09:00matsu様「1905年以前の、確実な、当時の記録を集め、広く提示しておく必要があります。」まったく...matsu様<BR/><BR/>「1905年以前の、確実な、当時の記録を集め、広く提示しておく必要があります。」<BR/><BR/>まったく同感です。<BR/>今後ともお知恵を貸していただけるようお願い申し上げます。<BR/><BR/>あの文章を書かれた島根県隠岐郡知夫(ちぶ)村長の大原正則氏の近辺や隠岐の人々の生活の記録、特に19世紀末の記録がまだどこかに残っているのでは・・と思っているのですが・・・pacifisthttps://www.blogger.com/profile/14100903035796287895noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-3077544801473877382008-10-14T22:31:00.000+09:002008-10-14T22:31:00.000+09:00ありがとうございます。文献として、日本人が竹島で漁をしていたことをあげていくのは、とても大事なことだ...ありがとうございます。<BR/><BR/>文献として、日本人が竹島で漁をしていたことをあげていくのは、とても大事なことだと思います。<BR/><BR/>「口碑」というのは、こわいもので、韓国側でも、「1905年以前に韓国人が独島=竹島にわたって漁をしていた」というような口碑が、今でも、「生産されている」というような話を聞いたことがあります。<BR/>それが書きとめられた時、歴史的文献となり、後世、たとえば200年後には、歴史的事実として固定されていってしまう恐れもあるわけです。<BR/><BR/>それだけに、いま確実に書き留められて残っているものを、しっかり集めて、そうした「うそ」を否定しておかないといけないと思います。<BR/><BR/><BR/>1905年以降のものは、いくら集めても、当然そのときはそうだろう、ということで力にならないでしょうから、1905年以前の、確実な、当時の記録を集め、広く提示しておく必要があります。<BR/><BR/>その意味では、ご提示いただいた、<BR/><BR/>http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima06/takeshima_top03.html<BR/>http://www.sof.or.jp/jp/news/51-100/59_1.php<BR/>は、まだやや弱いようにも思われます。<BR/><BR/><BR/>島根県はもちろんですが、葛生修亮や外務省の通商彙纂などの記録に出てくる、鳥取県、山口県、大分県、三重県などの方々の、明治期の記録に期待するところも大きいかと思います。<BR/><BR/>韓国側には、たぶん、まったくそういうものはないだろうと予想されるだけに、とても重要だと思います。<BR/><BR/><BR/><BR/>このサイトは、こうした近代のものはもちろん、各時代の一次史料を、丁寧に発掘して、正確に起こし、しかも英訳もして、韓国側の理解もうながしていらっしゃるのは、とても大事なお仕事をされていると思います。<BR/>私自身、ここに投稿させていただいてまだ半年あまりですが、いつも感服しています。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-70099609421410428262008-10-14T19:02:00.000+09:002008-10-14T19:02:00.000+09:00余談ですが、日本にはニホンアシカの繁殖地が5箇所あったそうです。青森県久六島、島根県竹島、伊豆諸島式...余談ですが、日本にはニホンアシカの繁殖地が5箇所あったそうです。青森県久六島、島根県竹島、伊豆諸島式根島・恩馳島・蘭難波島だったそうで、これらの島では近・現代(江戸時代末期~大正時代)アシカ猟が行われていました。<BR/><BR/>http://www.jstage.jst.go.jp/article/mammalianscience/35/2/176/_pdf/-char/ja/<BR/><BR/>下記は島根県隠岐郡知夫(ちぶ)村長の大原正則氏の文章です:<BR/><BR/>「明治20年代終わり頃から隠岐の島人が竹島で漁猟に従事していて、明治37年(1904年)には竹島でアシカ猟を行っていた西郷町の中井養三郎から明治政府に対し、領土編入及び貸与の願いが出された。 」<BR/><BR/>http://www.sof.or.jp/jp/news/51-100/59_1.phppacifisthttps://www.blogger.com/profile/14100903035796287895noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-67989521454354951722008-10-14T12:47:00.000+09:002008-10-14T12:47:00.000+09:00matsu様確かに小屋を建てて大々的に事業化したのは中井が初めてですが、その前から隠岐の漁民がアシカ...matsu様<BR/><BR/>確かに小屋を建てて大々的に事業化したのは中井が初めてですが、その前から隠岐の漁民がアシカを獲りに行っていたとされています。<BR/><BR/>島根県のHPにもそう書いてあります。これ以外の島根県の文書にも同様のことが書いてあります。ただし古文書に残っているわけではなく、おそらく口伝なのだろうと思います。<BR/><BR/>http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima06/takeshima_top03.html<BR/><BR/>このHPには明治20年代の終わり頃からと書いてありますので、明治27~8年とすれば1894~1895年の日清戦争の頃にあたります。pacifisthttps://www.blogger.com/profile/14100903035796287895noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-23972462979732816342008-10-14T09:41:00.000+09:002008-10-14T09:41:00.000+09:00「砂の器」の世界ですか。なるほど。本当に、中井養三郎の肉声ですね。竹島附近に遊弋し調査にあたる軍艦「...「砂の器」の世界ですか。なるほど。<BR/>本当に、中井養三郎の肉声ですね。<BR/><BR/>竹島附近に遊弋し調査にあたる軍艦「橋立」の将校と、竹島でアシカ猟の指揮をとる中井のやりとりの様子が、眼に浮かぶようです。<BR/><BR/><BR/>さて、pacifistさんご指摘の、「目下、獵夫ノ指揮ヲ司ルモノハ隠岐國中江養三郎ナルモノニシテ」の意味ですが、「その前から日本人のアシカ猟は行われており(1890年代からと言われています)」というのは、疑問ではないかと私は思います。<BR/><BR/>1903年(明治36年)、中井が初めてリャンコ島でアシカ猟をはじめたころについて、<BR/>同じ川上健三『竹島の歴史地理学的研究』の188pに、注78として中井養三郎の報告があります。(句読点追加)<BR/><BR/>「参拾六年五月十六日、着島ノ頃ハ、他ニ漁猟者一人モナク、全島ノ海岸ハ全ク海驢ヲ以テ●ハレ、頗ル捕獲ニ容易ナリシニヨリ、漁獲者等狂喜シ、漁舎ヲ適地ニ構ヒ、・・・」<BR/>(●は手偏に庵)(=おおわれ)<BR/><BR/>中井が1903年にアシカ猟を始めた頃は、まだ、まったく手つかず、誰も猟をしていない様子が伺えます。そもそも中井は、アシカ猟などきっと失敗するだろうというまわりの失笑を買いながら、いろいろと工夫して、次第に事業化に成功していったことが彼の文章に書かれています。中井が成功したのを見て、いろいろな人間が、われもわれもと押し寄せたのが、中井が上京する原因でした。いずれも、1903年以降のことです。<BR/><BR/>中井以前の竹島の様子については、有名な<BR/>明治36年(1903年)に東京、黒龍会により出版された葛生修亮『韓海通漁指針』に<BR/>(このブログSunday, June 10, 2007から引用)<BR/><BR/>△ ヤンコ島<BR/>欝陵島より東南の方約三十里、我が隠岐国を西北に距ること殆んど同里数の海中に於て、無人の一島あり、晴天の際欝陵島山峯の高所より之れを望むを得べし、韓人及び本邦漁人は之れをヤンコと呼び、長さ殆んど十餘町、沿岸の屈曲極めて多く、漁船を泊し風浪を避くるに宜し、然れども薪材及び飲料水を得るは頗る困難にして、地上数尺の間は之れを穿てども容易に水を得ずと云ふ、此島には海馬非常に棲息し、近海には鮑、海鼠、石花菜等に富み、数年以前山口県潜水器船の望を●して出漁したるものありしが、潜水の際、無数の海馬群に妨げられたると、飲料水缺乏との為めに、満足に営業すること能はずして還りたりと、察するに當時の季節は恰も五六月にして、海馬の産期に當たりしが故に、特に其妨害を受けたるものならんか、又た附近に鱶漁の好網代あり、数年以来五六月の候に至れば大分県鱶縄船の引継き之れに出漁するものあり、昨年春季同處より帰航したる漁夫に就て之れ聞くに、出漁未た二三回に過ぎさるが故に、未だ充分の好果を得たりと云ふべからざれ共、毎季相応の漁獲あり、従来の経験上、其網代の状態、及び鱶類棲息の模様等より観察するに、将来頗る有望の漁場たるを疑はずと、同島は蓋し當業者の為めには尚ほ充分探検の価値あるべし<BR/><BR/>この文章は、単行本としての発行は1903年ですが、雑誌「黒龍」への発表は1901年であり、よって、この「数年以前」の基準は、1901年の数年以前、および、「昨年春季」は、1900年の春です。<BR/>ここでは、鮑(あわび)、海鼠(なまこ)、石花菜(てんぐさ)を求めて、潜水器による漁のために数年以前に山口県の人間が出漁したものの、産期のアシカにさまたげられて失敗した、という例が紹介されており、まだアシカ猟は視野に入っていません。<BR/><BR/>また、1902年10月16日付、外務省通商局編纂 『通商彙纂』「韓国鬱陵島事情」に、<BR/>(同じくこのブログ Saturday, June 09, 2007から引用(句読点追加))<BR/><BR/>又、本島ノ正東約五十海里ニ三小島アリ。之ヲリャンコ島ト云ヒ、本邦人ハ松島ト稱ス。<BR/>同所ニ多少ノ鮑ヲ産スルヲ以テ、本島ヨリ出漁スルモノアリ。然レトモ同島ニ飲料水乏シキニヨリ、永ク出漁スルコト能ハサルヲ以テ、四五日間ヲ經ハ本島ニ歸港セリ。<BR/><BR/>とあり、1902年段階では、まだターゲットは「多少ノ鮑」だけであって、アシカ猟には、まったく、ふれていません。<BR/>(なお、この「本島ヨリ出漁スルモノ」(「本島」は欝陵島)は、直前の記述にあるように、「韓人漁夫ハ皆無ノ有様」ですから、日本人です。)<BR/><BR/>しかし、上記2例からも明らかにわかるように、<BR/>Pacifistさんのおっしゃる「当時、竹島は日本人がコントロールしていて、韓国人は日本人に雇われて行っていたに過ぎない」というのは、その通りだと思います。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-78607945044456489502008-10-13T13:44:00.000+09:002008-10-13T13:44:00.000+09:00小嶋日向守様確かに出雲弁では「い」が「え」になるようですね。出雲弁訛りの特徴から「し」「す」、「ち」...小嶋日向守様<BR/><BR/>確かに出雲弁では「い」が「え」になるようですね。<BR/><BR/>出雲弁訛りの特徴から「し」「す」、「ち」「つ」、「じ」「ず」「ぢ」「づ」の区別がつかなかったり、「い」→「え」、「う」→「お」、「に」→「ね」、「ぬ」→「に」「の」、「ひ」→「ふ」、「ぶ」→「び」、「み」→「め」、「む」→「も」、「ゆ」→「い」→「え」の音韻変化します。<BR/><BR/>http://www7a.biglobe.ne.jp/~izumobenn/<BR/><BR/>しかし養三郎を洋三郎とせず、きちんと書いているところを見ると「よう」は「養うの養」などと確認して記録したことを思わせます。「なかえ」はどう聞いても(聞き返すまでもなく)「中江」と聞こえて確認する必要を感じなかったということでしょうか・・・pacifisthttps://www.blogger.com/profile/14100903035796287895noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-40422309547844379062008-10-13T13:14:00.000+09:002008-10-13T13:14:00.000+09:00中井の「イ」と「エ」の発音に関しては、雲伯方言でしょう。橋立側の聞き取りに問題があったとのではなく、...中井の「イ」と「エ」の発音に関しては、雲伯方言でしょう。<BR/>橋立側の聞き取りに問題があったとのではなく、ズーズー弁であったであろう、養三郎の肉声が聞こえてきそうです。まさに出雲方言を鍵とした「砂の器」の世界ですね。小嶋日向守https://www.blogger.com/profile/07893820564918155381noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-5001162337017467682008-10-13T12:58:00.000+09:002008-10-13T12:58:00.000+09:00matsu様追加発言です。中井は確かに1903年から竹島での猟を開始しましたが、その前から日本人のア...matsu様<BR/><BR/>追加発言です。<BR/><BR/>中井は確かに1903年から竹島での猟を開始しましたが、その前から日本人のアシカ猟は行われており(1890年代からと言われています)、「目下、獵夫ノ指揮ヲ司ルモノハ、隠岐國中江養三郎ナルモノニシテ」という言葉も『今のところは中井がリーダーである(が、以前は別の者がリーダーだった)』という意味を含んでいるのではないかと思えます。pacifisthttps://www.blogger.com/profile/14100903035796287895noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-27304958405928313212008-10-13T12:21:00.000+09:002008-10-13T12:21:00.000+09:00matsu様非常に興味深い資料のご指摘をありがとうございます。(川上健三『竹島の歴史地理学的研究』1...matsu様<BR/><BR/>非常に興味深い資料のご指摘をありがとうございます。(川上健三『竹島の歴史地理学的研究』189p)<BR/><BR/>岩崎組(山口県人岩崎某)四月十日 十人(邦人三、韓人七) 弐艘 凡二百余頭<BR/>沼田組(宇賀沼田庄太郎)四月十四日 九名(邦人三、韓人六) 二艘 二百余頭<BR/>浦郷組(浦郷村門某外二名)四月十四日 十名(邦人七、韓人三)二艘 二百余頭<BR/><BR/>当時、竹島は日本人がコントロールしていて、韓国人は日本人に雇われて行っていたに過ぎないというのは私たちには既に知られているところではありますが、pro-Koreanの人たちはこの事実を直視してきませんでした。このようにはっきりした数字が示されれば説得力があります。<BR/><BR/>なお、中井と中江の違いは幕末の頃によくあったことで(坂本龍馬や他の幕末の志士たちも多くの書き間違いを残していますが、彼らにはさして大きな問題ではなかったようです。当時は音が近ければそれで良いという感覚があったのだと思います。)、明治のこの時代もまだ同じ感覚が引き継がれているのではないかと思いました。pacifisthttps://www.blogger.com/profile/14100903035796287895noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-49240151693151919362008-10-13T02:12:00.000+09:002008-10-13T02:12:00.000+09:00日本語ですみません。この記録より、約十か月ほど前になりますが、有名な「「リアンコルド」岩、韓人之ヲ独...日本語ですみません。<BR/><BR/>この記録より、約十か月ほど前になりますが、有名な<BR/>「「リアンコルド」岩、韓人之ヲ独島ト書シ、本邦漁夫等略シテ「リャンコ」島ト呼称セリ」という記録が書かれている<BR/>『軍艦新高行動日誌』の1904年(明治37年)9月25日条に、<BR/><BR/>「松島ヨリ渡航、海馬猟ニ従事スル者ハ、六七十石積ノ和船ヲ使用シ、嶼上ニ納屋ヲ構エ、毎回約十日間滞在シ、多量ノ収額アリト云フ。而シテ其人員モ、時々四五十名ヲ超過スルコトアルモ、淡水ノ不足ヲ告ゲザリシ。」<BR/><BR/>というくだりがあります。田中邦貴さんのサイトに原文があります。<BR/>http://www.geocities.jp/tanaka_kunitaka/takeshima/niitaka/03.jpg<BR/><BR/>これをみると、確かに松島(=欝陵島)から大勢がアシカ漁に出かけていったことがわかります。<BR/><BR/>しかし、従来、この史料があまりに有名なため、隠岐からの出漁、ということが、逆に盲点になっていたと思います。<BR/><BR/>実は、私自身も、中井養三郎は欝陵島から出漁していた、と思いこんでいました。<BR/><BR/>しかし、ここでいう欝陵島からの出漁者は、もしかしたら、中井の競争者であった、他の人間のことかも知れませんね。<BR/><BR/>中井の住所は、「隠岐(西郷町大字西町)」ですし、彼の書いたものを少し読みなおしてみましたが、欝陵島からの出漁と書かれたものが、はたしてあるのでしょうか。<BR/><BR/>このとき(1904年9月)、軍艦「新高」の質問に答えているのは、<BR/>「松島ニ於テ「リアンコルド」岩実見者ヨリ聴取リタル情報」<BR/>とありますから、このインフォーマントは、欝陵島内のことはわかっていても、隠岐からリアンコルド岩に誰が出漁していたかは、知らなかったのかも知れないわけです。<BR/><BR/>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<BR/>さて、この記録ですが、<BR/><BR/>本島ハ目下海驢(Seals)ノ獵季ニシテ、隠岐國ヨリ渡來ノ獵夫(寧ロ漁夫ナラン)三十五六名二達シ、小銃ト網器トヲ用ヒテ海驢ヲ捕フ。<BR/>其ノ獵獲ノ豊富ナル、見ルニ足ルヘキモノアリ。少時間ノ観察中、彼等ヲ捉ヘテ談話セシ處、亦参考ニ資スヘキ価値アルヲ以テ、其ノ概要ヲ左ニ揚ク。<BR/><BR/>本島ハ、海驢獵ニ於ル一富場ニシテ、獵者ハ陰暦四月中旬ヨリ七月中旬マテ駐在シ、連日獵業ニ従事ス。海驢ヨリ得ル所ハ、皮ト油トニシテ、之ヲ大阪地方ニ送リ、毎年ノ獲得金額、四千圓乃至五千圓ナリト云フ。<BR/>目下、獵夫ノ指揮ヲ司ルモノハ、隠岐國中江養三郎ナルモノニシテ、本人ノ云フ所ニ依レハ、若シ志願者アラハ本年ハ冬季モ駐在シテ、本島ニ越年ヲ試ムルノ志願ヲ有スト。<BR/>海驢ノ外、少量ノ鮑ヲ収獲スト云フ。<BR/><BR/><BR/>この、1905年6月13日という、日付のはっきりした時期に、中井養三郎が、確かに竹島で猟をしている、というのは、彼の肉声を聞くようで、やや興奮します。日本海海戦が終わってまだ2週間、というのに、もう、35、6人もが、竹島で猟をしているわけです。当然、ポーツマス条約の前ですから、まだ戦争中です。<BR/><BR/>ここで、「隠岐國ヨリ渡來ノ獵夫」とありますから、彼らの根拠地は、確かに隠岐です。<BR/>そして、「本人ノ云フ所ニ依レハ」とありますから、中井養三郎が、確かにそこにいたわけです。<BR/><BR/>(「井」と「江」のまちがいはなんでしょうか。彼の発音が、「橋立」の人間には聞き取りにくかったんでしょうか。この時期に中井養三郎と中江養三郎という二人の人間がいて、同じように竹島でアシカ猟をしていたとは、考えにくいと思います。)<BR/><BR/>「冬季モ駐在」については、これはもう領土編入のあとのことですから、不安がなくなって、そう考えたのかもしれません。実際には厳しい自然条件を考えれば難しいでしょうし、実現はしなかったんではないでしょうか。その前の冬、すなわち中井が1年前の9月に申請をしてから、閣議決定するまでの冬、あるいは、そのさらに前の年の冬、には、住んでいなかったことが、逆に証明されます。<BR/><BR/>ここで、「毎年ノ獲得金額、四千圓乃至五千圓」の「毎年」の意味は何でしょうか。<BR/><BR/>中井が、はじめてアシカ猟を始めたのは、1903年(明治36年)です。<BR/>これは中井が明治43年(1910)に隠岐島庁に出した「履歴書」に<BR/>明治三六年、此年始テ「リアンコールド列岩」ニ於テ海馬猟ヲ試ム<BR/>とあることなど、諸史料が一致しています。<BR/><BR/>よって、<BR/>1903(明治36)始テ「リアンコールド列岩」ニ於テ海馬猟ヲ試ム<BR/>1904(明治37)猟期のおわって上京、9月「貸下願」申請<BR/>1905(明治38)領土編入 日本海海戦 この史料の6月13日<BR/>というわけで、毎年、といっても、これが3年目、ということになります。<BR/><BR/>1904年(前掲、「新高」の調査の年)の猟期に、われもわれもと押しかけて、このままでは、資源が枯渇する、という危機感から、中井は猟期がおわってから上京し、いろいろあって、結局、領土編入となります。<BR/><BR/>川上健三『竹島の歴史地理学的研究』189pに、<BR/>同年(明治37=1904)ハ、漁猟者数大ニ増加シ、石橋井口組ノ両組ノ外ニ、山口県人岩崎某、韓国欝陵島ヨリ韓人ヲ引キ来リ・・・とあります。<BR/><BR/>また、同じページに、<BR/>明治38年(1905)の記録とされる「密猟者」8組のうち、<BR/>岩崎組(山口県人岩崎某)四月十日 十人(邦人三、韓人七) 弐艘 凡二百余頭<BR/>沼田組(宇賀沼田庄太郎)四月十四日 九名(邦人三、韓人六) 二艘 二百余頭<BR/>浦郷組(浦郷村門某外二名)四月十四日 十名(邦人七、韓人三)二艘 二百余頭<BR/>の3組には「韓人」が含まれています。しかし、あとの5組は、いずれも邦人であり、欝陵島からではなく、隠岐からの出漁であったのかもしれません。<BR/><BR/>これまで、前記「新高」の報告に縛られて、アシカ猟について欝陵島との関係で考えがちな我々が、隠岐と竹島との関係を見直すのに、この記録は良い史料だと思います。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-33534046840209714622008-10-10T22:03:00.000+09:002008-10-10T22:03:00.000+09:00Gary,I haven't heard from you for a long time. Ple...Gary,<BR/><BR/>I haven't heard from you for a long time. Please leave a comment if you have time. (Also please feel free to correct my English text if you need. Thanks.)pacifisthttps://www.blogger.com/profile/14100903035796287895noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-58688921437504920732008-10-07T22:49:00.000+09:002008-10-07T22:49:00.000+09:00chaamiey様Thanks a lot again.chaamiey様<BR/><BR/>Thanks a lot again.pacifisthttps://www.blogger.com/profile/14100903035796287895noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-13571314105070410162008-10-07T22:05:00.000+09:002008-10-07T22:05:00.000+09:00一條ノ<礁脈>ニ因リテ一小流<脈>アレトモでしょうかねえ。一條ノ<礁脈>ニ因リテ<BR/><BR/>一小流<脈>アレトモ<BR/><BR/><BR/><BR/>でしょうかねえ。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-24965210683423879922008-10-07T18:06:00.000+09:002008-10-07T18:06:00.000+09:00shon-taroh様ご教示ありがとうございます。訂正しました。皆様のお陰で大分全体の意味が通ってき...shon-taroh様<BR/><BR/>ご教示ありがとうございます。<BR/>訂正しました。皆様のお陰で大分全体の意味が通ってきました。<BR/>英訳するまでしばらく時間を頂きます。pacifisthttps://www.blogger.com/profile/14100903035796287895noreply@blogger.com