tag:blogger.com,1999:blog-26948035.post1502184637565726703..comments2024-01-26T17:48:29.804+09:00Comments on Dokdo-or-Takeshima?: 1900 - Oct. 22 - A petition by 李乾夏 "鬱陵島를鬱島로改稱하고島監을郡守로改正에關한請議書", which excluded Dokdo from Uldo County.Gerry Bevershttp://www.blogger.com/profile/14311939520870098017noreply@blogger.comBlogger43125tag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-92210936994125824452018-04-12T01:21:23.054+09:002018-04-12T01:21:23.054+09:00いや違いました。高宗の花押です。ネット上に高宗の花押画像がありました。
http:/1stcabin...いや違いました。高宗の花押です。ネット上に高宗の花押画像がありました。<br />http:/1stcabinet.tistory.com/71<br />http:/cfs7.tistory.com/image/4/tistory/2008/07/18/02/23/487f8028e2789<br /><br />李乾夏の肩書の上に「勅」とあるのを御名御璽によって証していたわけです。<br /><br />「另具粘附」というのは、「別に備えて」と「添附」・「貼附」ということで、「別紙添付」と訳せる言葉です。台湾では、「另具」、「粘附」、「另具粘附」を現在でも用いています。<br />高宗の花押と、上奏した文書にある李乾夏の花押が偶然でしょうが、良く似ています。李という漢字に関係しているのでしょうか。<br />高宗の花押のある方の文書で、縦横のバランスの正しい画像が、先日ニュースになったグルシュコフ教授の2015年の論文にあるのを見つけました。これによって、私が行った縦横比率の補正が正しかったことが証明されました。<br /><br />http://priroda.ras.ru/pdf/2015-05.pdf<br />45~58頁が鬱陵島のルポ記事で、その50頁(コマ番号51)にあります。<br />小嶋日向守https://www.blogger.com/profile/07893820564918155381noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-42658886352532460682018-04-12T01:16:23.898+09:002018-04-12T01:16:23.898+09:00こちらの勅令の史料に記載された文字は、筆跡がkaneganeseさんが掲載された「内部」のものと酷似...こちらの勅令の史料に記載された文字は、筆跡がkaneganeseさんが掲載された「内部」のものと酷似していますので筆跡は同一人によるものでしょう。<br />http://farm3.static.flickr.com/2692/4352027487_87c88a02e3_o.jpg<br />http://farm5.static.flickr.com/4063/4352773802_e1ac8eacd2_o.jpg<br /><br />こちらは、茶阿弥さんのブログに掲載して頂いた補正した「写し」の画像とは、また違うものの「議政府」のものです。おそらく議政府の原本でしょう。勅令第四十一號の文書が、少なくとも、議政府の「原本」と「写し」それに、内(務)部のものの三点があるというになります。<br /><br />とくに重要なのは、勅命之寶の國璽印のある画像です。<br />こちらにも花押があります。印判の真上です。画像の縦横の比率が狂っていては、花押の識別など出来ませんので、補正した画像でよく見て下さい。<br />http://i.imgur.com/shoUOJA.jpg<br /><br />算用数字の2に草冠のような横棒を加えた花押です。<br />高宗が、粤(ここ)に花押を書くのは唐突な感じがします。左の署名は、李乾夏です。曩(さき)に見た李乾夏の花押に似ています。しかし、李乾夏の花押だとすると、御璽の上になって不敬不遜な気もします。それでも御璽が後から押捺されたことを考えると問題はないのかもしれません。小嶋日向守https://www.blogger.com/profile/07893820564918155381noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-66091826745390084752018-04-12T00:57:18.648+09:002018-04-12T00:57:18.648+09:00うわぁ。ハンギョレ新聞の記事に騙された。これだから韓国人の言う事はあてになりません。「勅命之寶」が鮮...うわぁ。ハンギョレ新聞の記事に騙された。これだから韓国人の言う事はあてになりません。「勅命之寶」が鮮明に押捺された別の公式文書の画像が、韓国外交部のサイトに出ているのです。<br />http://dokdo.mofa.go.kr/jp/img/contents/view0202_img03_b.jpg<br /><br />画像が青っぽく、カラーバランスが狂っている上に、縦方向に短く変形されていて、正方形の印字が横に潰れていますが、勅命之寶の判読は容易です。なーにが、勅命之宝の「国璽が捺された公文書は発見されていない」だ。どうして韓国人のやることはこれほどまでにいい加減なのだろうか。<br /><br />縦横を正しい形状に補正します。<br />http://i.imgur.com/shoUOJA.jpg<br /><br />この画像の前には、勅令第四十一號の原本画像に付随した議政府のものが二枚あります。<br />http://dokdo.mofa.go.kr/jp/img/contents/view0202_img01_b.jpg<br />http://dokdo.mofa.go.kr/jp/img/contents/view0202_img02_b.jpg<br />こちらの三枚の画像とも縦横の比率が狂っています。前とは逆に、横長になっています。小嶋日向守https://www.blogger.com/profile/07893820564918155381noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-15241291309390492982018-04-12T00:13:10.983+09:002018-04-12T00:13:10.983+09:00文面を起こしました。李乾夏と成岐運が、大韓帝国皇帝に請議書を添えて勅令案文の裁可を仰いだことが、この...文面を起こしました。李乾夏と成岐運が、大韓帝国皇帝に請議書を添えて勅令案文の裁可を仰いだことが、この文面によってわかります。李乾夏と成岐運の花押もあります。<br /><br />奏本 第百八十七號<br />議政府議政臨時署理賛政内部大臣 臣 李乾夏參賛 臣 成岐運 <br />謹奏 本年十月二十四日以内部大臣 臣 李乾夏 <br />請議 欝陵嶋改以欝嶋 嶋監改以郡守事<br />勅令案已經會議標題可否另具粘附並呈原案伏候<br />聖裁<br />光武四年十月二十五日奉 (印判國璽 篆書体「勅命之寶」)<br />旨制曰可<br />臣 李 (花押)<br />臣 成 (花押)<br /><br />http://i.imgur.com/Amvb0v1.jpg<br />李乾夏の花押の特徴に注意して下さい。<br />小嶋日向守https://www.blogger.com/profile/07893820564918155381noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-63180864385847633682018-04-11T01:29:13.030+09:002018-04-11T01:29:13.030+09:00鈕の部分はこんな彫刻です。
http://img.yonhapnews.co.kr/etc/inne...鈕の部分はこんな彫刻です。<br />http://img.yonhapnews.co.kr/etc/inner/KR/2016/12/15/AKR20161215137100005_01_i.jpg<br /><br />斜め上からの別画像<br />http://postfiles5.naver.net/20150824_212/chefjhkim_1440394394347i5WPJ_JPEG/1%B4%EB%C7%D1%C1%A6%B1%B9%B1%E2%B1%B9%BB%F5%C4%A2%B8%ED%C1%F6%BA%B877.JPG?type=w1<br /><br />印影画像<br />http://contents.history.go.kr/data/img/km/km_023/km_023_287_02.jpg <br /><br />Kaneganeseさんの最初の画像を着色してみました。<br />http://i.imgur.com/Amvb0v1.jpg<br /><br />見事に一致しています。紛う方なき大韓帝国の国璽です。小嶋日向守https://www.blogger.com/profile/07893820564918155381noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-35428202873748416722018-04-11T00:37:21.910+09:002018-04-11T00:37:21.910+09:00「勅命之寶」という印章を検索してみました。
http://www.hani.co.kr/arti/...「勅命之寶」という印章を検索してみました。<br /><br />http://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/344660.html<br />ハンギョレ新聞2009年03月17日の記事に説明がありました。 <br />고종은 다양한 용도의 국새들을 국정에 썼다고 전해지나, 지금까지 ‘황제어새’ 이외의 국새가 찍힌 공문서는 발견되지 않았다. 국립중앙박물관에 전시중인 ‘칙명지보’와 국립전주박물관에 전시된 ‘대원수보’, ‘제고지보’는 국방, 관직 인사 등에 쓴 것으로 짐작하는 국새지만, 찍은 공문서들은 전하지 않는다. <br />日本語の記事もあります。<br />http:/japan.hani.co.kr/arti/culture/1102.html<br />「高宗は多様な用途の国璽を国政に用いたと伝えられるか、これまで‘皇帝御璽’以外の国璽が捺された公文書は発見されていない。国立中央博物館に展示中の‘勅命之宝’と国立全州博物館に展示されている‘大元帥寶‘’,制誥之寶’は国防,官職人事などに使ったもので推定される国璽だが捺された公文書らは伝えられていない。」<br /><br />ハンギョレ新聞の記事が正しければ、「勅命之寶」という捺印がある公文書の発見ということになります。これは凄いかも?<br />韓国国立中央博物館にこの印璽が現存しているとのことです。<br /><br />印璽の印刻<br />http://scontent-sea1-1.cdninstagram.com/vp/b11f94277275787d66011ebf90d314df/5B4C1CE2/t51.2885-15/e15/10946548_1564529470470929_1083203985_n.jpg?ig_cache_key=OTMxNTYzNjcwMzEyNTUwMDAz.2小嶋日向守https://www.blogger.com/profile/07893820564918155381noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-16013832548309809652018-04-11T00:22:20.842+09:002018-04-11T00:22:20.842+09:00次は、kaneganese・matsuさん提供の「請議書の原本」を推定着色したものです。
http:...次は、kaneganese・matsuさん提供の「請議書の原本」を推定着色したものです。<br />http://i.imgur.com/EbmGbu7.jpg<br />http://i.imgur.com/6UFz6pv.jpg<br />http://i.imgur.com/Zd11e4o.jpg<br /><br />kaneganeseさんの投稿には、さらに二枚の画像が続いています。<br />それは勅令四十一号の部分で、「写し」と内容に齟齬はありません。こちらは流石に何度も照らし合わせたのでしょう。<br />http://farm3.static.flickr.com/2692/4352027487_87c88a02e3_o.jpg<br />http://farm5.static.flickr.com/4063/4352773802_e1ac8eacd2_o.jpg<br /><br />さてKaneganeseさんのポスティングには、もう一枚画像があります。最初の画像です。<br />http://farm3.static.flickr.com/2694/4352773656_2aa16c30a7_o.jpg <br /><br />鬱島郡の範囲の記述に気を取られて、最初の画像は読み飛ばしていました。かすれた印影があります。朱印が薄くて、上から文字も書かれているので、右側の印字が読めません。画像の階調を濃くして、時間を掛けてやっと判読できました。「勅命之寶」とあります。印影の上の部分に、「聖裁」という字があります。おおっ、なんとこれは、大韓帝国の国璽です。高宗皇帝の捺印があるということは、「原本」に相違ありません。ハンコの大きさも、「内部大臣之章」や「内部之印」よりもひときわ大きなもので、御宝璽です。<br /><br />勅令本文だけでなく、鬱島郡の範囲を明記した「原案」の請議書にも、皇帝が裁可し押印していることになります。竹島は、この1900年10月25日の文書からも日韓の問題とはならないことが明白です。小嶋日向守https://www.blogger.com/profile/07893820564918155381noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-87546588976808921712018-04-09T19:57:30.284+09:002018-04-09T19:57:30.284+09:00外交部が掲載している請議書の画像は、三枚とも、横が1000ピクセル、縦が1368ピクセルですが、本来...外交部が掲載している請議書の画像は、三枚とも、横が1000ピクセル、縦が1368ピクセルですが、本来の比率を推定すると、1000対809、もしくは1000対810ぐらいの比率のはずです。kaneganeseさんとmatsuさんによる原本の画像と同じ大きさの罫線でしょうからそれと同じく、正しい比率は、1053対852ぐらいでなければなりません。<br /><br />記載されている文章を原本と照合してみましたら、何と有ってはならない筈の齟齬がありました。<br />原本では、「該島地方이 蹤可八十里」なのに、<br />写しは、「該地方이 蹤可八十里」で「島」が欠落しています。<br />また原本では、「果有妨碍」の「果」の字が「田+木」ではなく<br />「田+小」と誤字で記しています。<br />写しの方では、「田+木」の「果有妨碍」と正しくなっています。<br />また細かな字体の違いでは、原典が、「戶」が二箇所であるのに、<br />写しでは、二箇所とも「戸」です。<br /><br />二つの史料画像を復原してみました。記述内容の比較が容易になったと思います。<br />韓国外交部の史料画像の縦横比の誤りを修正したもの<br />http://i.imgur.com/X6l9lsG.jpg<br />http://i.imgur.com/cxtNciY.jpg<br />http://i.imgur.com/U3lJSLc.jpg小嶋日向守https://www.blogger.com/profile/07893820564918155381noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-16601534175157644512018-04-09T19:33:37.145+09:002018-04-09T19:33:37.145+09:00消えてしまった一月前のコメントの再投稿です。
Kaneganeseさま、matsu様 小生が、茶阿弥...消えてしまった一月前のコメントの再投稿です。<br />Kaneganeseさま、matsu様 小生が、茶阿弥さんのブログに投稿したものをまとめ直して、こちらのブログにも投稿します。<br />https://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/57256868.html<br /><br />韓国外交部のサイトに、「請議書」の史料画像が掲載されています。<br />http://dokdo.mofa.go.kr/eng/img/contents/view0201_img01_b.jpg<br />http://dokdo.mofa.go.kr/eng/img/contents/view0201_img02_b.jpg<br />http://dokdo.mofa.go.kr/eng/img/contents/view0201_img03_b.jpg<br /><br />文字がやけに縦長で、読み難く画像が不自然です。この理由は、画像の縦横のサイズが変形されているからです。韓国外交部のサイトの画像は、不自然な加工が他にもあります。民國日報の新聞見出しの「臺」という文字を消している例があります。国家機関が公式に出している画像が歪められていることは問題です。<br /><br />外交部による解釈も翻訳も間違いだらけです。しかも原本ではなくて、記録用の議事録か何かに書き写されたもので、kaneganeseさんによるこちらのポスティングと画像こそが、印章判があり、原本と考えられるものです。小嶋日向守https://www.blogger.com/profile/07893820564918155381noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-71306774900277050652018-03-15T02:55:04.480+09:002018-03-15T02:55:04.480+09:00It seems that my comments have disappeared from th...It seems that my comments have disappeared from the board.小嶋日向守https://www.blogger.com/profile/07893820564918155381noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-30925569281074308042016-10-31T19:39:02.279+09:002016-10-31T19:39:02.279+09:00The district under the jurisdiction of the Ulleund...The district under the jurisdiction of the Ulleundo County was 14km from east to west and 16km from north to south, according to the census report from the county head in 1909.<br /><br />nobyさんが見い出された史料で、chaamieyさんのブログからの情報です。<br />http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/57490739.html<br /><br />韓国学中央研究院所蔵<br />「宮内府雑綴」 慶尚南道欝島郡地方状況 1908年調査<br />線装1冊(10張); 27×19.8cm <br /><br />宮内府雜綴 慶尚南道欝島郡地方状況<br /><br />一 本島地方東西三十五里南北四十里<br /> 東日本國隠岐縣 海里一千里<br /> 西三渉地 海里八百里<br /> 南釜山港 海里一千里<br /> 北元山港 海里一千里<br />一 三面二十洞 戸口九百戸 人口四千四百七十口 <br />一 日本人来住戸数二百一戸 人口六百六十七口 <br />一 全島内無里数平地島内水畓勤為二十斗落故山上火田耕作農業<br /> 所産大豆牟麥玉朮甘蔗 <br />一 海産烏賊魚甘藿海衣等 <br />一 海島中悪風太甚綿麻不成無海風則温暖毎年十月為始翌年<br /> 二月至積雪不為通行 <br />一 錢貨不通人民日用事物以秋太為務交易通貨於日本商賈 <br />一 通渉船便日本風帆船一年内自二月六七月間順風則通渉冬節則永不通渉故<br /> 人民等貿物次到釜港七月以前若不還歸則過冬後翌年正月以後還歸本島事 <br /><br />隆煕三年一月 日 (1909年) <br />欝島郡守 臣 沈能益 <br /><br />※牟麥(大麦)、玉朮(オオバナオケラ)、甘蔗(サトウキビ) 甘藿(ワカメ)、海衣(海苔)<br />※ 玉朮の「朮」の原文漢字は、草冠に木に点(? u672F)のunicode 26b38-g、 <br />画像の字体は、unicode26b38です。これは異体字で意味は同じです。<br /><br />原文画像 <br />http://223.194.62.57/img/book2/2/JE_A_23637/JE_A_23637_001_000021.gif <br />http://223.194.62.57/img/book2/2/JE_A_23637/JE_A_23637_001_000022.gif <br />http://223.194.62.57/img/book2/2/JE_A_23637/JE_A_23637_001_000031.gif <br /><br />同冊子史料に含まれる文書 <br />1 慶尚南道鬱島郡地方状況 <br /> 釜山港、三渉地、鬱島郡守、元山港、隱岐縣、沈能益、 <br />2 報告第號 <br /> 觀察使、宮内府大臣、金彰漢、東萊府尹、閔丙奭、 <br />3 隆煕三年一月日 慶尚南道機張郡地方状況 <br /> 具然浩、郡主事、郡廳郡守、機張郡守、東萊、東面校洞、梁山、郵遞所主事、駐在所監督廵査、海門、廵査、 <br />4 咸鏡道 <br /> 南道、北道小嶋日向守https://www.blogger.com/profile/07893820564918155381noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-55760978761870802682016-10-30T21:45:19.226+09:002016-10-30T21:45:19.226+09:00This comment has been removed by the author.小嶋日向守https://www.blogger.com/profile/07893820564918155381noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-34330525155226171482015-07-09T08:21:20.026+09:002015-07-09T08:21:20.026+09:00小嶋さん
ありがとうございます。
前にも書きましたが、この資料は、1900年『勅令41号』の石島...小嶋さん<br /><br />ありがとうございます。<br /><br />前にも書きましたが、この資料は、1900年『勅令41号』の石島=獨島説を木端微塵にするもので、もっと広く、広く知られてよい資料だと思います。<br /><br />大韓帝国は、勅令41号を下すにあたって、「該島地方이 蹤可八十里오 橫爲五十里라」という判断をし、「鬱陵島を鬱島に改稱し島監を郡守と改正する」勅令を出したわけです。<br />すなわち「鬱陵島」がそのまま「鬱島郡」になったわけで、新設の「鬱島郡」に、現竹島=獨島が含まれないのは明白です。これには反駁の余地がありません。<br /><br />「石島」がどの島にあたるにしても、この「蹤可八十里 橫爲五十里」の中で、探すべき島です。<br /><br />この資料は慎鏞廈『獨島の民族領土史研究』(1996知識産業社)192pに載っているもので、韓国側はこの資料の存在を早くから知っていて、ふれないでいます。<br />matsuhttps://www.blogger.com/profile/07684934430147760728noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-53419498454657355102015-07-08T15:17:52.322+09:002015-07-08T15:17:52.322+09:00判読されていなかった「沃膄」を補いました。
http://dokdo-or-takeshima.bl...判読されていなかった「沃膄」を補いました。<br />http://dokdo-or-takeshima.blogspot.jp/2015/07/1899-july-6-ulleungdo-inspection-report.html<br />補足箇所の意味は「土地は、肥沃な所もあれば、膄せた土地もある」だと思います。<br />元のポスティングのこちらに、出来る限り原文に近い字形にした本文テキストを投稿しておきます。<br /><br />欝陵島를 欝島로 改稱하고 島監을 郡守로 改正에 關한 請議書<br />右는該島가 東溟에 特立하야 大陸이 遠隔하온바 開國五百四年에 島監을 設寘하야 島民을 保護하고 事務를 管掌케하온쇠 該島監 裵季周의 報牒과 本部視察官 禹用鼎과 東萊稅務司의 視察錄을 參互節査하오즉 該島地方이 蹤可八十里오 橫為五十里라 四圍峭壁에 中有巨山하야 自北止南하고 間有大川하야 深廣이 幾容舟楫하고 其土가 沃膄하고 其民이 質野하야 自數十年来로 民蓄이 蕃殖하야 戶數가 為四百餘家오 墾田이 為萬餘斗落이라 居民의 一年農作 擔包數爻가 藷為二萬餘包오 大麥이 為二萬餘包오 黄豆為一萬餘包오 小麥이 為五千包라 하오니 大率 戸數와 田數와 穀數를 陸處한 山郡에 較計하오면 數或不及이오나 不甚相左 뿐더러 挽近 外國人이 往来交易하야 交際上도 亦有하온지라 島監이라 稱號하오미 行政上에 果有妨碍기로 欝陵島를 欝島라 改稱하고 島監을 郡守로 改正하오미 妥當하옴기 此叚 勅令案을 會議에 提呈事<br />光武四年十月二十二日<br /> 議政府賛政内部大臣 李乾夏 内部大臣之章<br /> 議政府議政 尹容善閣下 査照 内部之印<br /><br />※<br />欝=鬱<br />寘=置<br />叚=段<br />http://glyphwiki.org/glyph/u2ff0-cdp-8c7a-u2ff1-u9fb4-u53c8.png<br />小嶋日向守https://www.blogger.com/profile/07893820564918155381noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-60525996541399487912010-12-25T03:26:10.584+09:002010-12-25T03:26:10.584+09:00matsuさん、ありがとうございます。『欝島記』はまさに欝島のことを記したもので、92km離れた竹島...matsuさん、ありがとうございます。『欝島記』はまさに欝島のことを記したもので、92km離れた竹島はもちろんのこと近傍の付属島嶼についても全く言及がありません。勅令に出てくる「竹島」「石島」を特定する手がかりが得られればと思ったのですが、それは叶いませんでした。(きちんと下し読みしたわけでなく、漢字を追っての走り読みですので見落としがあるかもしれません。)<br /><br />勅令に出てくる「竹島」は竹嶼のことですよね。今日に至るまで韓国では「竹島」の名は使われ続けています。この島はかつて于山島と呼ばれていた島と同一であろうことは、韓国で制作された数多くの地図を比較すれば明らかです。ということは、「于山島は独島の古い言い方だ」という韓国側の主張を否定することになりますね。于山島は「竹島(チュクド)」なのですから。したがって、「于山島」もしくは「于山」という文字列を古文書の中から拾い出してきては今日の竹島(独島)を古くから承知していた、だから韓国領土だという主張は成り立たなくなるのではないでしょうか。<br /><br />2010.12.25Makotohttps://www.blogger.com/profile/02528932854910517750noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-80098099190087140672010-12-24T01:06:34.041+09:002010-12-24T01:06:34.041+09:00「欝島記」ありました。ここです。
http://dokdo-or-takeshima.blogsp...「欝島記」ありました。ここです。<br /><br />http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2007/12/1900-uldo-gi.html<br /><br />宋炳基の本、半月城訳(『竹島(独島)・欝陵島歴史研究』または『欝陵島・独島(竹島)歴史研究』)<br />http://www.amazon.co.jp/%E6%AC%9D%E9%99%B5%E5%B3%B6%E3%83%BB%E7%8B%AC%E5%B3%B6-%E7%AB%B9%E5%B3%B6-%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%A0%94%E7%A9%B6-%E5%AE%8B-%E7%82%B3%E5%9F%BA/dp/4884000870Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-30921299350503905022010-12-24T01:04:54.028+09:002010-12-24T01:04:54.028+09:00Makotoさん
鋭い指摘だと思います。
「島監裵季周の報牒と本部視察官禹用鼎、東萊稅務司の視察...Makotoさん<br /><br />鋭い指摘だと思います。<br /><br />「島監裵季周の報牒と本部視察官禹用鼎、東萊稅務司の視察錄」<br /><br />この3つうち、「本部視察官禹用鼎(の視察錄)」はいわゆる「欝島記」とよばれるもので、これまでこのブログでも議論されています。<br />たしか、禹用鼎自身の書いた原本は「missinng(紛失中)」で、高麗大学に「写本」があったように記憶しています。原本は、実は残っているのに、韓国側に都合が悪いので「紛失中」になっているのではないか、というような議論が出たことがあります。<br />高麗大学本は、愼鏞廈の資料集の中に収録されていて、昔TORONさんのサイトにあったように記憶しています。このブログにも、「欝島記」の映像と起こしと英語訳もあったように思います。<br /><br />「島監裵季周の報牒」というのは、実に重要な資料だと思います。ですが、まだ見たことがありません。1900年の日韓合同の鬱陵島調査の時に、禹用鼎・赤塚正助の一行を迎えた鬱陵島の島監だった裵季周の報告、ということでしょうから、中央政府に報告が行き、残っているはずの文献ですが、残っていないのか、宋炳基『鬱陵島と獨島』も触れていなかったように思います。あるいは、もっと前に、鬱陵島の島監として裵季周が送ったさまざまな報告を、一般的に指しているのかもしれません。<br /><br />「東萊稅務司の視察錄」は、釜山(東萊)にいたフランス人の稅務司、ラポルテ(ラポート)Laporte (羅保得)の視察録のことでしょうが、これも、まだ見たことがありません。おそらく税関を統括していたイギリス人のブラウンあてに送られたものではないかと思います。英語で(あるいはフランス語で?)書いたのかもしれません。この文章(請議書)を書くときに、中央政府が参照しているので、中央政府にも同じものが行っていた、ということでしょう。あるいは、イギリスの文書館あたりに残っているのではないかとも思います。私自身がこのブログに参加しだしたころに、「誰か、この文書を知りませんか?」という質問をした記憶があります。<br />宋炳基の本、半月城訳の156ページ付近に関係記述があります。また167ページの注94でラポルテの視察録に言及していますが、宋炳基自身が、原本は見ていない書きぶりです。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-86365454587883554452010-12-22T09:54:55.560+09:002010-12-22T09:54:55.560+09:00改めて読み返していたのですが、気になる点が出てきました。「島監裵季周の報牒と本部視察官禹用鼎、東萊稅...改めて読み返していたのですが、気になる点が出てきました。「島監裵季周の報牒と本部視察官禹用鼎、東萊稅務司の視察錄」というのは現存しているのでしょうか?<br /><br />2010.12.22Makotohttps://www.blogger.com/profile/02528932854910517750noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-55926109072275240292010-02-16T19:11:24.441+09:002010-02-16T19:11:24.441+09:00.
朝鮮の古地図が示す勅令41号の範囲
勅令41号には、内部大臣がした請議書がありました。その請....<br />朝鮮の古地図が示す勅令41号の範囲<br /><br /> 勅令41号には、内部大臣がした請議書がありました。その請議書に、鬱島郡守の管轄範囲が「縦が80里ほど、橫は50里」と記されています。<br /> この根拠を古地図から探ってみました。元データは、GTOMRさんのサイトです。<br /> 結論として、竹島一件の直後から朝鮮は、チェクトを含んだ鬱陵島を「東西が80里ほど、南北は50里」と認識していたことが明らかです。この認識が、内部大臣がした請議書に引継がれ、勅令41号になりました。<br /><br /> 最初に思い浮かぶのは、1834年作成の青砥圖です。青砥圖は、チェクトを含んだ鬱陵島を概ね東西80里、南北50里程度に記述しています。<br /><br /> 1711年に作成された「鬱陵島圖形」は捜討官による鬱陵島圖であるが、「周面量可二百餘里 自東至西八十餘里 自南至北五十餘里」と記されている。<br /> 18世紀中旬に作成された「八道與地圖」は欝陵島圖と物産が掲載されているが、その物産欄に「周面二百餘里 東西八十餘里 南北五十餘里」と記されている。<br />1736-67年に作成された「輿地圖」(4709-68)には、鬱陵島図と物産が掲載されているが、その物産欄に「周面二百餘里 東西八十餘里 南北五十餘里」と記されている。<br />1737-76年に作成された『廣與図』には、鬱陵島図と物産が掲載されているが、その物産欄に「周面二百餘里 東西八十餘里 南北五十餘里」と記されている。<br />1750'sに作成された「海東地図」には、鬱陵島圖と物産が掲載されているが、その物産欄に「周面二百餘里 東西八十餘里 南北五十餘里」と記されている。<br />『地乘』江原道〈奎 15423〉には、鬱陵島図と物産が掲載されているが、その物産欄に「周面二百餘里 東西八十餘里 南北五十餘里」と記されている。<br /><br />上記に画像を付けました。<a href="http://take8591.blogspot.com/2010/02/blog-post_16.html" rel="nofollow">朝鮮の古地図が示す勅令41号の範囲</a>take_8591https://www.blogger.com/profile/11855357037596463671noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-3561059884900350072010-02-16T08:25:49.659+09:002010-02-16T08:25:49.659+09:00Kaneganeseさま
この資料については、ぜひ日本語版のポストも作ったらいかがでしょうか?
...Kaneganeseさま<br /><br />この資料については、ぜひ日本語版のポストも作ったらいかがでしょうか?<br /><br />日本人にも、広く知ってほしい資料です。<br /><br />できたら韓国語版も作ったらいいのでしょうが、私も「韓→日」の翻訳にくらべて「日→韓」の翻訳にはいまいち自信がありません。<br /><br />この資料について韓国人の意見をぜひ聞きたいものです。<br /><br />こうした資料の広報は、本来は日本の外務省なり文部省の仕事だと思います。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-51355182303810399382010-02-16T06:53:03.733+09:002010-02-16T06:53:03.733+09:00え゛ーっ、すっかり忘れてた(^^;え゛ーっ、すっかり忘れてた(^^;Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-87573079627008799602010-02-15T23:45:16.667+09:002010-02-15T23:45:16.667+09:00matsuさん
既に、訳して頂いていたんでしたね。大変失礼しました。(chaamieyさんにも申し...matsuさん<br /><br />既に、訳して頂いていたんでしたね。大変失礼しました。(chaamieyさんにも申し訳ないことをしてしまいました。)<br /><br />他にも見落としている重要な文書がありましたら、お知らせ下さい。こうして原文を実際に見ることは大事なことだと思います。このブログのコメンテーターの方々は皆さんそれぞれ異才の持ち主で、誰が何に気づくか分かりませんので。Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-52538469984600483342010-02-15T21:06:21.117+09:002010-02-15T21:06:21.117+09:00>GTOMRさんのサイトにもあるように
早速、ご紹介のサイトに行くと、次の文章がありました。
...>GTOMRさんのサイトにもあるように<br /> 早速、ご紹介のサイトに行くと、次の文章がありました。<br /> 一例として方眼圖で、距離の記載がある1834年の青砥圖でその範囲を示してみる。<br /> 鬱陵島と于山島の場所は、たて第3行から第四行/横は第18層にある。<br /> しかしながら、此の圖の一マスは、縦が70里横が100里となっている。<br /> 于山島を含んだ鬱陵島は概ね横70-80里、縦50里程度に記述されている。<br /><br /> 勅令41号請議書の「該島の地方は縦が80里ほど、橫は50里という。」と、縦横の表示が異なりますが、青砥圖に一致します。<br /> 李乾夏が、青砥圖を示し、「この于山と描かれているのが竹島で、その存在が不確かな残り5島を総称して石島とします。」と説明している状況が脳裏に浮かびます。take_8591https://www.blogger.com/profile/11855357037596463671noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-71138756271080337782010-02-15T18:33:58.845+09:002010-02-15T18:33:58.845+09:00This comment has been removed by the author.take_8591https://www.blogger.com/profile/11855357037596463671noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-75176779645600906832010-02-15T11:51:26.241+09:002010-02-15T11:51:26.241+09:00http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/11/16t...http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/11/16th-column-seeking-truth-based-solely.html<br /><br />もう、おととしの11月のことになりますが、この文献については議論したことがありましたね。<br /><br />この文献は、「1900年勅令41号の『石島』=独島説」を完全に粉砕するものだと思います。<br /><br />GTOMRさんのサイトにもあるように、鬱陵島を実際に掃討した朝鮮王朝の役人たちが、「鬱陵島」の範囲として報告している中に、竹島=独島が含まれていたことは歴史上一度もありません。<br /><br />https://sites.google.com/site/takeshimaliancourt/Home/koreansrecognizationofullengdodistrictAnonymousnoreply@blogger.com