tag:blogger.com,1999:blog-26948035.post8555118482237878134..comments2024-01-26T17:48:29.804+09:00Comments on Dokdo-or-Takeshima?: 1902 Japanese Document Describing UlleungdoGerry Bevershttp://www.blogger.com/profile/14311939520870098017noreply@blogger.comBlogger160125tag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-86468110760515366702009-11-18T14:43:45.031+09:002009-11-18T14:43:45.031+09:00どなたか。
宜しければ、
1902-04-29 釜山の海関士彌須氏の鬱陵島報告
について、写経お願い...どなたか。<br />宜しければ、<br /><a href="https://search.i815.or.kr/ImageViewer/ImageViewer.jsp?tid=ns&id=HS1902042902" rel="nofollow">1902-04-29 釜山の海関士彌須氏の鬱陵島報告</a><br />について、写経お願いいたします。<br /><br />また、<br /><a href="https://search.i815.or.kr/ImageViewer/ImageViewer.jsp?tid=ns&id=HS1902062402" rel="nofollow"><br />1902.06.24日付 皇城新聞、オットセイの生息情報</a><br />について、写経お願いいたします。<br />特に、鬱陵島及??最多<br />??の部分がなんであるか教えてください。<br /><br />Anyone please type the Two Hwason simun in the above links<br />Thank you.GTOMRhttps://www.blogger.com/profile/06881539471132140299noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-46654039955369360972009-11-18T14:33:51.828+09:002009-11-18T14:33:51.828+09:00This comment has been removed by the author.GTOMRhttps://www.blogger.com/profile/06881539471132140299noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-78237496816103869942008-04-27T01:04:00.000+09:002008-04-27T01:04:00.000+09:00kaneganeseさん深夜の対応、ありがとうございました。元気が出ました。kaneganeseさん<BR/><BR/>深夜の対応、ありがとうございました。<BR/><BR/>元気が出ました。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-33545790326750864122008-04-26T03:53:00.000+09:002008-04-26T03:53:00.000+09:00matsuさんmatsuさんのような方にお誉め頂けるのは、大変光栄です。できるだけ客観的な観点で資料...matsuさん<BR/><BR/>matsuさんのような方にお誉め頂けるのは、大変光栄です。できるだけ客観的な観点で資料を検討するように心がけていますので、どうか、これからもご協力頂ければ幸いです。素人ですので、間違っていたら訂正することを信条にしています。ご批判も大歓迎です。ただ、お読みになっていただいて分かるように、私達日本人は単なる資料研究のみを行っているのではなく、非論理的な反日活動に対抗し、日本の正しい姿を英語で伝える事にも同時に心がけています。<BR/><BR/><BR/>さて、1901年の葛生修亮『黒龍』については、いずれもっと詳しく調べてから記事にしたいと思っていたので、このような書誌学的検討をしていただけると、大変参考になります。(yahooでご活躍のyabutarouさんがやはり書誌学的知見をお持ちでしたので、大いに助けていただいたものです。最近彼の姿を見ないのは大変残念です。)<BR/><BR/>葛生修亮 『韓海通漁指針』(1903黒龍会)が恒屋盛服 『朝鮮開化史』(1901博文館)を引用し、<BR/>岩永重華編『最新韓国実業指針』(1904年8月7日刊)と田渕友彦『韓国新地理』』(1905博文館)が葛生修亮 『韓海通漁指針』(1903黒龍会)をさらに引用した、と言うことですよね?大変興味深いです。そして、恒屋盛服 『朝鮮開化史』(1901博文館)自体が『皇城新聞』(1899)「欝陵島事況」のパクリである、と。(まあ、これは大体推測できていましたが。)「支那人之れを松島と呼ぶ」のくだりなど、気がつきませんでした。なるほど、そういうことでしたか。<BR/><BR/>ご質問の件に関して、<BR/>①“「ヤンコ島」という名称について...その意味で、一次資料としての価値は低いと思います。”<BR/>→了解いたしました。念頭において各資料を検討したいと思っています。ただし、ご指摘のように1901年という早い時点で、もしくはさらに遡って、韓人がヤンコ島という日本語の呼び名で、さらに石島でも独島でもない名称で呼んでいた、という事実は大変重要です。というのは、すでにケロロ軍曹(あえて誰とはいいませんが)のような人たちは、1901年の時点で韓国人が既に竹島/Liancourt Rocksの存在を知っていた、と言う事実のみをもって領有権の主張に濫用するので、それを防止する為にもしつこくしつこく言い続けなければならないのです。<BR/><BR/>②1903 「韓海通漁指針」(東経130度35分)、1904 「最新韓国実業指針」(東経130度35分)、1905「韓国新地理」(東経130度58分)と、すべて韓国の東端を竹島/Liancourt Rocksを除外して定義しています。さらに「朝鮮協会」は、民間の組織で、上記の書物は官製ではないあくまで民間の出版物です。<BR/>これらの事から総合して、竹島/Liancourt Rocksは、当時の鬱陵島ひいては朝鮮在住日本人にとっては、韓国領土としての認識ではなく、日本主体の鬱陵島経済圏としての認識であったと思います。このギャップに気がついたのが結果として中井達であり、当時の日韓関係における領土意識、特に一般民間人におけるそれは、えてしてこのような曖昧なものであったのでしょうか。いずれにせよ、江原道の鬱陵島とヤンコ島へ日本人が漁へ出かけていたのは事実で、一方韓国人がイニシアチブを持って出かけていた事実は皆無である以上、領土の主張と言う観点においては、韓国側の論拠は大変薄いものであると言わざるを得ません。<BR/><BR/>竹島問題を通じて痛感する事は、所謂”専門家”の言うことは必ずしも真実ではなく、しかし、国家や自治体の言うことは例え真実ではなくても既成事実として認識されてしまう、と言うことです。<BR/><BR/>という訳で、“専門家”が“オーソライズ”したと仰る事に関しては、例えそれがどう言う内容であっても仰るほどの重要性は見出せません。matsuさんの意見は、拡大解釈といえないでしょうか?また、それが1904年であっても官吏が序文を書いていても、同じです。(東端を竹島/Liancourt Rocksより東として明記していたなら話は別ですが。)領土紛争に関して重要なのは、主権国家もしくはそれに準ずる自治体の領有意識でしょう。本件の全体像を知る上では大変重要で興味深い事実であることには変わりませんけれど。事実は事実として、それ以下でもそれ以上でもありえません。<BR/><BR/>答えになっていないかもしれませんが、この辺が私がここで英語で投稿や論争する事を単なる資料の調査研究にとどまらず、世界に向かって分かりやすく、領土問題ひいては、日韓関係の真実について戦略的に世界に広報する事をも念頭においている事から来る、matsuさんとの姿勢・認識の違いかもしれません。そうご理解頂ければ幸いです。<BR/><BR/>何も"失礼"なことはありませんので、ご遠慮なくご発言下さい。大変貴重なご意見を頂けると期待しています。英語に関して、ここではネイティブでない人間の英語を笑う人は、それだけでバッシングを受けます。お互い、へたくそな英語でどんどん語り合いましょう。間違ったり理解できなかったりする時は尋ねればいいのです。Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-19537524190483762192008-04-26T01:17:00.000+09:002008-04-26T01:17:00.000+09:00Kaneganeseさん こんにちは Matsuです。日本語ですみません。葛生修亮『韓海通漁指針』(...Kaneganeseさん <BR/><BR/>こんにちは Matsuです。<BR/>日本語ですみません。<BR/><BR/>葛生修亮『韓海通漁指針』(1903)、田渕友彦『韓国新地理』(1905)、岩永重華『最新韓国実業指針』(1904)について、前と同様、あるところに書いたものを修正したものです。<BR/>いずれも、韓国の江原道の鬱陵島のところに「ヤンコ」が書かれている本です。<BR/>ご参考になれば幸いです。<BR/><BR/>その前に、<BR/>このサイトのあちこちを、あらためてゆっくり読ませていただきました。史料を、ひとつひとつ、きっちりと伝えようとする姿勢に、あらためて尊敬を覚えました。時々日本語があるのでほっとします。英語で書くと、完全武装で、しゃっちょこばっているようで大変です。スペル・ミスと間違いだらけの、つたない自分の英語が、文字として残っているのを見て、ちょっと元気がなくなっています。<BR/><BR/><BR/>GTOMRさん、pacifistさん、あらためてこんにちは。<BR/><BR/>英語で書いて、いきなり「ため口」になってしまい、新参者なのに、失礼があったと思います。<BR/>おゆるしください。<BR/><BR/>私が『朝鮮教会史』について投稿したのは、ちょうど、赤塚正助の地図と報告に焦点があたっていたころでした。<BR/>赤塚の地図は、ちょうど1年前くらいに、最初に影印版のほうを国会図書館で見つけて、この「空島」はいったい何じゃい、ひょっとして「独島」? と思いつつ、この資料はまだあまり紹介されていませんね、と議論をしていたところでした。<BR/>外交史料館のほうの史料もまもなく見つけていたので、お役に立てば、と思い参加しました。<BR/><BR/>あらためて皆さんのコメントを読んで、非常にレベルの高い、しかし、わかりやすい議論をしていると思います。今後も参加させていただければと思います。その時は頑張って英語で書きます。<BR/><BR/>では、本文です。もともとはメールです。<BR/>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<BR/>田渕友彦『韓国新地理』(1905博文館)や葛生修亮『韓海通漁指針』(1903黒龍会)は、前から気になっていた資料なので、国会図書館で見てきました。<BR/><BR/>驚いたことに、田渕友彦『韓国新地理』の「欝陵島」の部分は、葛生修亮『韓海通漁指針』の該当部分を、一部省略・簡略化しながら、ほとんどそのまま、丸写しにしたものです。<BR/><BR/>当時は、著作権なんぞという観念はなかったんだなあ、と思った次第です。<BR/>となると、田渕の『韓国新地理』は、一次史料としての価値は、ほとんど無いように思います。<BR/><BR/>さらに、この本は、認識が混乱しているというか、編集が杜撰です。本文では「江原道」のところに欝陵島と「ヤンコ島」をについて記述しながら、巻頭地図では「竹島(リヤンコールト岩)」と載せており、ヤンコ島の名前はありません。もしかしたら、原稿が出来上がってしまってから、巻頭地図に最新情報を入れたのかもしれません。しかも、地図は「韓国全図」というタイトルですが、その中に「竹島(リヤンコールト岩)」という、日本領になってからの名称を入れているのも杜撰です。<BR/><BR/>また、ヤンコについて、葛生の『韓海通漁指針』で、「韓人及び本邦漁人、之をヤンコと呼び」(123p)とあるのを、田渕『韓国新地理』では、「俗に之をヤンコ島と称す」(308p)としていますが、もともとが「まる写し」だとすると、1905年段階でも本当に「ヤンコ島」と称していたのかどうか。一次史料としての価値は微妙です。<BR/><BR/>一方で、この本は、明治38年(1905)9月9日に、東京で有数の出版社である博文館から発行されており、「竹島(リヤンコールト岩)」の名前入りの地図が堂々とのっていることから、<BR/>日本政府は、竹島の領土編入を、1906年に鬱島郡守沈興澤に告げるまで「秘密にしていた」、という韓国側の議論には、大きな反証になると思います。<BR/><BR/>そこへいくと、葛生修亮『韓海通漁指針』(1903 1月4日発行 黒龍会)は、<BR/>全体が著者自身の実際の踏査に基づいており、一次史料として非常に貴重な本だと思います。<BR/>当時の欝陵島の様子が、生き生きと書かれています。でも、葛生自身は、実際に欝陵島まで行ってはいないのではないか、とも思えます。それは、欝陵島の項目については、~と云ふ。~と云ふ。という表現があいついで出てくるからです。<BR/><BR/>ヤンコ島について「欝陵島より東南の方約三十里」という距離感は、1里4キロで120キロと思えますから、1902年『通商彙纂』(実は西村警部報告5月30日付)の五十海里(90キロ)に比べると落ちます。<BR/><BR/>実は、この欝陵島とヤンコ島を記述した「沿海地理」の部分は、以前に雑誌『黒龍』に掲載した「韓国沿海事情」に増訂加除を加えたもの、とあり、『黒龍』2号(明治34 1901 6月発行)に、ほぼ同文がのっています。<BR/>よって、この報告に載っている時間の基準、「韓人及び本邦漁人之をヤンコと呼び」という時期は、本が発行された1903年ではなく、1901年6月の直前を基準に考えられると思います。<BR/><BR/>葛生自身、『韓海通漁指針』の前書きで、明治32年(1899)2月、初めて韓国に渡り、33年(1900)34年(1901)に実地調査をして、34年(1901)の8月中旬から11月上旬に『韓海通漁指針』を書いたとあります。そうすると、初めて韓国に渡った1899年2月から、雑誌刊行の1901年6月までの間に、この「ヤンコ」という表現を得ていることになります。<BR/><BR/>また、葛生は「ヤンコ島」の項目で、数年以前、山口県の潜水器船が、鮑(あわび)、海鼠(なまこ)、石花菜(てんぐさ)を求めて出漁し、無数の海馬(あしか)にさまたげられて漁にならなかったことを書き、数年以来、大分県の鱶(ふか)縄船が出漁していることを書き、昨年春季、実際に帰航した漁夫から取材したことを書いています。この「数年以前」「数年以来」や「昨年春季」の基準は、雑誌出版の1901年6月です。すなわち昨年春季は1900年春ということになります。また、韓人については、漁の記述はありません。<BR/><BR/>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<BR/>しかし、遅くとも1901年の段階で「ヤンコ」として竹島=独島を認識していた「韓人」がいることは、やはり重要です。<BR/><BR/>1900年6月の赤塚=禹用鼎の合同調査の段階では、竹島=独島の存在は欝陵島に住む人間の認識の中には入っておらず、1902年4月の、日本人警察官駐在所の設置により、欝陵島の把握が格段に深まり、リャンコ島も欝陵島に住む人間の認識下に入ってきた、と考えていました。しかし、葛生によれば、1901年の「数年以前」から、山口県や大分県の日本漁民が「ヤンコ島」に出漁していたわけです。<BR/>これらの人たちは、欝陵島の港を根拠地にしていたことも考えられます。それは、この1902年10月16日『通商彙纂』(=5月30日付西村警部報告)に、日本人漁民が欝陵島の港を根拠に漁労活動をしていることが書かれているからです。<BR/>もしかしたら、こうした接触が、欝陵島の韓人たちにも「ヤンコ」の存在を知らしめていたのではないでしょうか。しかし、欝陵島には「韓人漁夫ハ皆無ノ有様」(西村報告)でしたから、直接「ヤンコ島」に出向いていって漁をしていた韓人はいなかったのではないかと考えられます。<BR/><BR/>欝陵島に韓国人漁民がいないことは、古く、有名な<BR/>1894(明治27)2・18付『山陰新聞』の「朝鮮竹島(=欝陵島)探検」(松江 佐藤狂水)に「漁業は絶えて従事せるものなく、全く知らざるものの如し」とあり、<BR/><BR/>また、最近出た『欝陵郡誌』(2007・2・28刊 欝陵郡庁)(原文韓国語)に、<BR/>「開拓民が農業移民だったために、漁業に従事することを嫌がるこのような行動のため、独島をはじめとする欝陵島海域の漁業は、欝陵島漁民の主導下では行われず、日本漁民が主導するようになり、それが結局、1905年日本が独島を無住地として自国の領土に編入するという不幸の原因を提供することになったと見なければならない。」とあることからもうかがえます。(第二編 歴史 近代 197p)(「無住地」は「無主地」の誤り)<BR/><BR/>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<BR/>すみません。おじゃまとは思いますが、あまりに面白いので続きを書かせて下さい。<BR/><BR/>なんと、一次史料の宝庫と考えた<BR/>葛生修亮 『韓海通漁指針』(1903黒龍会)の、欝陵島のくだりは、<BR/>その3分の1ほどが、<BR/>恒屋盛服 『朝鮮開化史』(1901博文館)からの引き写しでした。<BR/><BR/>著作権も何もあらばこそ、明治の人にとって、本を書くということは、ひとの文章を、ことわりもなく引用することと同じだったのでは、と思えるほどです。<BR/><BR/>欝陵島は、金剛山の一支脈。山の高さ四千尺。貝原益軒が日本の所属と言ったこと。<BR/>明治十五六年の頃、本邦人某工人を派して伐木に従事、韓廷が抗議。金玉均、白春培、徐敬秀。<BR/>貨物売却の時、口銭百分の二を官に納れ、木材には船一隻に百両を納れ、以て公然の密貿易。<BR/>・・・これらが、全く同じです。<BR/><BR/>恒屋盛服の『朝鮮開化史』は、1901(明治34)1・29刊ですから、葛生修亮としては、同年6月の雑誌『黒龍』掲載には、十分に引用が可能でした。<BR/><BR/>やれやれ、という感じですが、しかし、大きな違いは、恒屋盛服 『朝鮮開化史』が<BR/>「大小六島アリ、其中、著名ナルヲ、于山島(日本人ハ松島ト名ク)、竹島ト云フ」<BR/>という有名なくだりを書いていること。<BR/><BR/>ソウルにいた恒屋盛服は、文献を漁渉すれば、当然、『東国文献備考』や『萬機要覧』に行き当たったので、「于山島(日本人ハ松島ト名ク)」と書いたのでしょう。<BR/><BR/>ところが、『朝鮮開化史』から多くを引用している葛生修亮が、「于山島」という地名には全くふれていません。そして、その代わりに、漁師たちによる実際の名称である、「ヤンコ島」になっているのは、非常に注目されます。また葛生が「大小六島」説を否定していることも、何か現地のインフォーマントからの新情報があったのかもしれません。<BR/><BR/>そして、葛生修亮のインフォーマントになった韓人が、この段階で(1899年2月から1901年6月まで)、島の名前を、「石島」とも「独島」とも言い得る可能性があるのに、そちらを使わずに、「ヤンコ」とのみ、言っていることにも注目されます。<BR/><BR/>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<BR/>さて、先日来の「引用の連鎖」ですが、<BR/>笑うべきことに、<BR/>恒屋盛服 『朝鮮開化史』(1901博文館)も、これまた、<BR/>かなりの部分が、あの有名な<BR/>『皇城新聞』1899(明治32) 光武3・9・23<BR/>の「欝陵島事況」のパクリでした。<BR/><BR/>金玉均、白春培、徐敬秀とならんでいるのを見て<BR/>はて、どこかで見たな、と思ってみたら、案の定でした。<BR/><BR/>『朝鮮開化史』の<BR/>大小六島アリ、其中、著名ナルヲ、于山島(日本人ハ松島ト名ク)、竹島ト云フ。<BR/>という有名なくだりも、<BR/>『皇城新聞』の、これまた有名な、<BR/>其附属した小六島中に、最著者は、于山島、竹島。<BR/>から来ているんですね。<BR/><BR/>最後に、もうひとつ、葛生『韓海通漁指針』(1903)120pに、<BR/>欝陵島について「支那人之れを松島と呼ぶ」と書いてあり、さすがは葛生、中国資料にもあたっていたか、と思いつつ、はて、中国では、当て字で「タケシマ」というのはあったけれど、「松島」ははじめてだなあ、と思っていたら、もと版の雑誌『黒龍』には、なんと「本邦人は松島と呼ぶ」とありました。<BR/>確かに「本邦」と「支那」は、字の形は似ていますが、日本と中国では大違い。なんとも罪作りなミスプリだなあ、と思った次第です。<BR/><BR/>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<BR/>さて、今日は、外務省政務局長の山座円次郎が序文を書いている<BR/>岩永重華編『最新韓国実業指針』(1904年8月7日刊)についてです。<BR/><BR/>「江原道」の項目の中に欝陵島とヤンコ島が書かれており、序文を寄せた山座円次郎が、ヤンコ島=独島は韓国領だと認識していたことを示すものだ、とされています。<BR/><BR/>この本は、『韓国実業指針』という名前の通り、いろいろな情報をまとめたガイドブックのようなもので、実地にあらためて調査をしたというよりは、いろいろな材料をもとに編纂したものであることは、その例言にもあります。<BR/><BR/>「朝鮮協会」という団体が1902年の3月に出来て、その肝いりで、ハンディな産業紹介を目指したもののようです。<BR/><BR/>ところが、この本では、欝陵島について、「支那人之を松島と呼ぶ」(293p)と記述しています。あれっと思いました。<BR/>「支那人之れを松島と呼ぶ」とは、前回書いたとおり、「本邦人」とあるべきところを「支那人」とした、葛生修亮『韓海通漁指針』(1903)の、出版の際の誤植です。<BR/>とすれば、この記述は、『韓海通漁指針』を引いている、ということになります。<BR/><BR/>そう思ってみると、ずいぶんコンパクトにはなっていますが、『韓海通漁指針』と同じ言い回しが随所にあります。江原道の一番最初のところに、欝陵島とヤンコ島が出てくるのも同じです。<BR/><BR/>こうなると、テキスト・クリティークの上からは、むしろ、「有難いミスプリ」です。<BR/>前に指摘した田渕の『韓国新地理』ほど引用は露骨ではありませんが、この『韓国実業指針』の記述も、『韓海通漁指針』から引用したものと思われます。<BR/><BR/>つまり、この1904年段階での、「ヤンコ島」という名称それ自体も、欝陵島との関連性も、江原道に属するということも、ただ『韓海通漁指針』の認識を、そのまま受け継いで書いているのではないでしょうか。その意味で、この資料も、一次資料としての価値は低いと思います。<BR/><BR/>こうして、田渕友彦『韓国新地理』1905も、岩永重華編『韓国実業指針』1904も、<BR/>いずれも葛生修亮『韓海通漁指針』1903の認識を、そのまま移している、ということになります。<BR/>「ヤンコ島」という名称についても、一見、いろんな人がそう呼んでいたように思えますが、ひょっとしたら、葛生修亮が得た「ひとつの情報」が、「こだま」のように広がっているだけかもしれません。<BR/><BR/>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<BR/>しかし、ここで、問題なのは、この本には、外務省政務局長・山座円次郎ばかりでなく、<BR/>「朝鮮協会」の日下義雄理事長など8人が序文をよせており、なおかつ朝鮮協会理事・国友重章閲とあって、いわば「朝鮮協会」という、当時の朝鮮問題専門家たちが、「江原道に属して、欝陵島とヤンコ島がある」という認識を、オーソライズしてしまっていることです。<BR/>しかも、1904年8月という、中井養三郎が申請を出す、まさに直前の時期に、です。<BR/><BR/>この本は、8月に1版がでたあと、同じ年の9月に2版、10月に3版と続いて出ており、(「朝鮮協会会報」10、1905年4月・69p)<BR/>「購買者の重(おも=主)なるものは、府県庁、官公署、郡市役所、学校、公共団体、商業会議所、銀行、会社、貴衆両院議員等なり」とあります。もちろん、手前みそでもありましょうが、影響力はそれなりに大きかったと思います。<BR/><BR/>こういうこともあって、当時の日本人の「常識的理解」として、欝陵島にくっつく形でヤンコ島を理解していた、とも言えるのでしょう。そしてこれは、竹島(欝陵島)あっての松島(竹島=独島)という、日本人の伝統的理解にも添うものでしたから、受け入れやすかったのだろうと思います。<BR/>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<BR/><BR/>ポイントは、次の2点です。<BR/><BR/>①「ヤンコ島」という名称について、一見、いろんな人がそう呼んでいたように思えますが、ひょっとしたら、葛生修亮が得た「ひとつの情報」が、「こだま」のように広がっているだけかもしれません。<BR/>「ヤンコ島」という名称それ自体も、欝陵島との関連性も、江原道に属するということも、ただ『韓海通漁指針』の認識を、そのまま受け継いで書いているのではないでしょうか。<BR/>その意味で、一次資料としての価値は低いと思います。<BR/><BR/>②(しかし)「朝鮮協会」という、当時の朝鮮問題専門家たちが、「江原道に属して、欝陵島とヤンコ島がある」という認識を、オーソライズしてしまっていることです。<BR/>しかも、1904年8月という、中井養三郎が申請を出す、まさに直前の時期に、です。<BR/><BR/>ご批判をお待ちします。matsuhttps://www.blogger.com/profile/17150926901589639609noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-1761262437136542042008-04-19T01:53:00.000+09:002008-04-19T01:53:00.000+09:00訂正“開拓、ビジネス関係の日本人向け書物にのみ”これは正確ではありませんでした。1905「韓国新地理...訂正<BR/><BR/>“開拓、ビジネス関係の日本人向け書物にのみ”<BR/><BR/>これは正確ではありませんでした。1905「韓国新地理」(田淵友彦)がありますね。Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-31941804943279863912008-04-19T01:35:00.000+09:002008-04-19T01:35:00.000+09:00追記“二つの『通商彙纂』は、鬱陵島を担当する日本の行政当局が、「リャンコ島」(ランコ島)を、鬱陵島が...追記<BR/><BR/>“二つの『通商彙纂』は、鬱陵島を担当する日本の行政当局が、「リャンコ島」(ランコ島)を、鬱陵島が担当すべきテリトリーである、と認識していること示す文献であることが重要だと思います。”という部分は、実は「国際法の論議」からすれば、むしろ韓国側に有利、日本側に不利なことであると考えています。”<BR/><BR/>この点に関しては、多少疑問があります。1902年の『通商彙纂』は地理の項にリャンコ島の言及がありません。漁業の項にのみあります。1903 「韓海通漁指針」、1904 「最新韓国実業指針」 と、開拓、ビジネス関係の日本人向け書物にのみ江原道の項に記載されている事も考えると、竹島が隠岐より鬱陵島を基地として出漁する方が経済効果が高かったことから、鬱陵島の附属島と言うよりもむしろ、鬱陵島在住日本人の経済活動の場所としての認識があった、と言う事をあらわしているにすぎないと思います。大韓帝国政府が日本人のリャンコ島の産物にたいして課税しようとした形跡がありませんでしたよね。<BR/><BR/>明治政府がリャンコ島が当然鬱陵郡の管轄であると考えていたなら、<A HREF="http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/02/july-1906-korea-omits-dokdo-from-uldo.html" REL="nofollow">1906年7月13日の皇城新聞記事“鬱島郡의 配置顛末”</A>にあるように統監府が鬱陵郡の附属島嶼等を確認することは無かったのではないでしょうか。Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-59221062313438410062008-04-19T01:04:00.000+09:002008-04-19T01:04:00.000+09:00matsuさん1900年の調査の様子が随分明らかになったようです。ありがとうございます。禹用鼎の『鬱...matsuさん<BR/><BR/>1900年の調査の様子が随分明らかになったようです。ありがとうございます。禹用鼎の『鬱島記』が全文読めないのは本当に残念です。もっとしっかり捜して欲しいですね。<BR/><BR/>“あえて「付属する」と書かずに「関係する」と書きましたが、「竹島(鬱陵島)があってこその松島(竹島・独島)」という、両者を一対とする考え方は、日本側に不利なのです。<BR/>これまでも「この2つの島が、何色に塗られているか」という議論がたくさんありましたが、どちらにしても「同じ色」で塗られているのは、結局は日本側に不利だと思います。”<BR/><BR/>“ところが、「2島は別物論」は、意外と実例が少ないのではないかと思います。幕末の「八右衛門事件」の時と、明治初期の渡辺洪基の『松島之議』ぐらいではないでしょうか。”<BR/><BR/>日本はこの2島を一方が他方の附属、というよりもセットのように考えてきたと思います。それはやはり鬱陵島への渡航の際に発見し、中継点として主に利用して来た事か大きいでしょう。ただ、他にも、隠岐の松嶋と記した「竹島図説」や現竹島を単独で描いた伝村川家所蔵の松嶋絵図、その他の竹島単独で書かれた竹嶋絵図に現竹島が描かれていない事、そして松嶋での単独漁を村川家主導で行っていた事を考えると、やはり、附属島として考えていたとは考えれられないと言うのが私の考えです。この点も当ブログで随分論争しました。また、「八右衛門事件」の高札、1877年の太政官指令ともに松嶋の事が議題の過程においてその名前が上がっているにもかかわらず、結論として松嶋という固有名詞が含まれませんでした。公文書に固有名詞が明文化されなかったことの意味は大変大きいと思っています。<BR/><BR/>ほぼ仰られた事の繰り返しになりますが、“日本側からは竹島/Liancourt Rocksより鬱陵島がその先にあるので竹島を日本が発見するのは自然で、空島政策で鬱陵島でさえ渡航禁止であり、漁業が軽視されていた農本主義の李朝朝鮮において、豊潤な鬱陵島の92km先にある竹島へわざわざ渡海して戻ってくる事は非経済的で、当時の朝鮮人が例えその存在に気がついていたとしてもわざわざ出かけようとしなかったことはこれまた自然である。”と言うのが私の考えです。鬱陵島から竹島が見えていたから朝鮮人は当然渡海していたはずだ、と言うのは現在の感覚からの推測にすぎず、92kmも離れた鬱陵島よりずっと収穫の少ない、そして何より飲料水の無い竹島にわざわざ行くのは命がけであり、政府派遣の官吏か冒険家でない限り無かったのではないでしょうか。実際その形跡さえありません。唯一の記録である張漢相の鬱陵島事蹟にも"ある"としか書いてありません。大谷、村川両家はこの点商人としてしっかりソロバンをはじいていたと思います。古文書からもそれが窺えます。この点も随分韓国側と論争しました。日帝時代以前の韓国の実情について理解している韓国人は少ないようですね。<BR/><BR/>“そして、それをひっくりかえしたのが、まさに肝付兼行だったわけです。実はその理論を、わたしたちは、まだしっかりとは理解していないようにも思います。”<BR/>この当たりの事情をもっと解明して行きたいですね。内藤正中氏は、肝付の測量専門家としての実績と、1894年の朝鮮水路誌に朝鮮の東限が明記されていた事を全く無視しています。残念です。1905年当時の世界的常識として韓国の領土の東限が東経130度35分~58分であったとは明らかなのに。<BR/><BR/>大変有意義な論議をありがとうございます。これからも一つ一つ資料を検討して行きたいと思っています。よろしくお願い致します。Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-13166161079510345222008-04-18T23:06:00.000+09:002008-04-18T23:06:00.000+09:00kaneganeseさん ありがとうございます。まず、訂正です。「李奎遠の報告(1882)にも、禹用...kaneganeseさん ありがとうございます。<BR/><BR/>まず、訂正です。<BR/>「李奎遠の報告(1882)にも、禹用鼎の報告(1900)にも、「独島」は一言半句も言及されていません。またその直前に欝陵島を探検した官僚たちによっても、欝陵島の地図が報告されているとのことですが(宋炳基『欝陵島と独島』2005)、その中にも于山=松島=独島の記述はないのです。」という部分の、「于山=」は、カットしなければいけませんね。<BR/>官僚たちは、「于山」については、実にたくさんの地図・記録を残していることは、このサイトが、何よりも実証していることですから。<BR/>ただし、それは、「于山=松島=独島ではない」ことの証明においてですが。(笑)<BR/><BR/>さて、お尋ねの、<BR/>「赤塚正助一行は、この報告を書くにあたり、地元のインフォーマントの情報をまとめたものと思われます。彼らは島監の裵季周の家を根拠地に調査をしていますから、この地図を作るにあたっても、情報提供は島の主だった人々から受けていると思われます。」<BR/>これはどこに書かれているのでしょう?<BR/>についてですが、<BR/>これは、すでにgtomrさんが、"1900 Japanese map of Ulleungdo"の3番目のコメントで書いておられるように、<BR/><BR/>機密京第一七號 <BR/>小官、五月三十日(略)翌三十一日着上陸。<BR/>翌日ヨリ三日間、島監・裵季周ノ邸ニ於テ、受命調査事項ニ就キ、雙方立會、日本人及島監ヲ取調ヘ、餘日ヲ以テ山林其他ノ雜項ヲ調査シ、<BR/>によったものです。<BR/><BR/>合同調査の主目的は「伐木問題や日韓人の間のトラブル」という部分は、この公使館記録の中の、当日か、あるいは、その前後の報告によったものだったと思います。<BR/><BR/><BR/>この、インフォーマントの韓国人が、果たして「島監・裵季周」ただ一人だけだったのか、あるいは、他の韓国人からも調査をしたのかは、厳密に言えば、この文章からは不明です。しかし、一行は、韓語に堪能な「警部・渡邊鷹次郞」を通訳として同行しているので、ほかの韓国人にも調査をして聞いた、と考えたほうが良いと思います。<BR/>また、この地図が、たとえ欝陵島在住の「日本人」の手になるものであったとしても、日本人は韓国人と離れて暮らしているわけではないので、その元になった情報を含め、当時島に住んでいた日本人・韓国人の認識が、この地図には凝縮されていると考えてよいのではないかと思います。<BR/>この地図は、これまでに見られた朝鮮の官僚たちの地図とは、ずいぶん形態が違っています。よって、あらかじめ携えていった地図をもとに、この報告書を作成しているのではなく、みずからが手書きで、現地で当時の情報を図示してあらわしているという点が、非常に貴重なのだと思います。<BR/><BR/>それにしても、この「空島」は、いったい何なんでしょうね。<BR/><BR/>こうなると、赤松と一緒に調査を行った禹用鼎の『鬱島記』に地図がないのが残念です。この『鬱島記』は、すでに原本は失われてしまったとも聞いていますが、なにしろ、この禹用鼎の報告をもとに「勅令41号」が同じ年の10月には出来上がるわけですから。<BR/><BR/><BR/>さて、次に<BR/>“二つの『通商彙纂』は、鬱陵島を担当する日本の行政当局が、「リャンコ島」(ランコ島)を、鬱陵島が担当すべきテリトリーである、と認識していること示す文献であることが重要だと思います。”<BR/>という部分は、実は「国際法の論議」からすれば、むしろ韓国側に有利、日本側に不利なことであると考えています。<BR/><BR/>あえて「付属する」と書かずに「関係する」と書きましたが、「竹島(鬱陵島)があってこその松島(竹島・独島)」という、両者を一対とする考え方は、日本側に不利なのです。<BR/>これまでも「この2つの島が、何色に塗られているか」という議論がたくさんありましたが、どちらにしても「同じ色」で塗られているのは、結局は日本側に不利だと思います。<BR/><BR/>なぜなら「鬱陵島」自体について、日本は、江戸幕府も明治政府も、結局は「韓国領」だと認めてきました。そこで、竹島(鬱陵島)は韓国領だけれども、松島(竹島・独島)は日本領なんだ、と言うときには、この二つは「別物なんだ」という議論をしなければならないわけです。日本側主張のポイントは、「二つは別物」というところにあり、韓国側主張のポイントは「この2島はいつでも一緒」という点にあります。<BR/><BR/>ところが、「2島は別物論」は、意外と実例が少ないのではないかと思います。幕末の「八右衛門事件」の時と、明治初期の渡辺洪基の『松島之議』ぐらいではないでしょうか。<BR/>しかも前者は、最近、池内敏さんによって、別物論で「言い訳」をしたのに、結局認めらずに、八右衛門は死刑になってしまったじゃないか、と言う論文が出ています。<BR/><BR/>日本人は、伝統的に「竹島・松島」を一対のものとして考えてきました。<BR/>「鬱陵島に付属してリャンコ島がある」という考え方のほうが、内藤正中さんが言うように、当時の日本人の「常識的理解」としては、現場では強かったのだろうと思います。中井養三郎自身も、そう信じていてからこそ、東京に行ったわけですから。<BR/><BR/>そして、それをひっくりかえしたのが、まさに肝付兼行だったわけです。実はその理論を、わたしたちは、まだしっかりとは理解していないようにも思います。<BR/><BR/><BR/>しかし一方で、韓国人の側はというと、リアンクール岩をまったく知りませんでした。知っていたとしても、それを利用したり、経営したり、統治したり、図示したり、占領したりすることは、全くありませんでした。それはまさに、このサイトの地図史料・文献資料が、ひとつひとつ、明らかにしてきていることだと思います。<BR/><BR/>東側の日本から竹島(鬱陵島)にアプローチしていく場合、その途中で必ず松島(竹島・独島)は視野にはいります。ところが、西側の朝鮮半島からアプローチして来る場合には、鬱陵島がゴールそのものなわけですから、さらにその先の小さな岩にまで行く必要性、経済的理由は、まったくなかったのです。実は、この簡単な事実こそが、すべてなのだと思います。<BR/><BR/>1日以上もかかる、水もない岩に、わざわざアワビをとりに出かける韓国人漁民は、いませんでした。(鬱陵島はアワビの宝庫でした。)そして、遠く新羅の時代から、中井養三郎がアシカ猟をはじめるまでは、この海産物のほかには、この岩の経済的価値はなかったのです。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-29971732696921033512008-04-18T01:21:00.000+09:002008-04-18T01:21:00.000+09:00matsuさん"ご批判"はむずかしいかもしれません。私はここまで詳しくありませんので、驚いています。...matsuさん<BR/><BR/>"ご批判"はむずかしいかもしれません。私はここまで詳しくありませんので、驚いています。ありがとうございます。<BR/><BR/>”赤塚正助一行は、この報告を書くにあたり、地元のインフォーマントの情報をまとめたものと思われます。彼らは島監の裵季周の家を根拠地に調査をしていますから、この地図を作るにあたっても、情報提供は島の主だった人々から受けていると思われます。もちろん、この時の合同調査の主目的は、伐木問題や日韓人の間のトラブルでしたから、漁業や周辺島嶼については関心が薄かったものとは思われますが、当時の鬱陵島人の意識の中には、鬱陵島の属島としてのリャンコ島=独島=竹島はなかったことも、この地図からうかがえるのではないかと思います。”<BR/><BR/>ちょうど、赤塚の地図の"島牧"について日本人が韓国人の発音を聞いて当て字で書いたのか、韓国人が漢字を赤塚に教えたのか、議論していたところでした。おそらく、後者ですね。ありがとうございました。ところで、これはどこに書かれているのでしょう?よろしければ教えて下さい。<BR/><BR/>”この、本島=欝陵島からリャンコ島にアワビを求めて出漁しているのが、韓国人か、日本人かは、この文面だけでは不明です。しかし、この報告には、「韓人漁夫ハ皆無ノ有様」とありますから、韓国人ではなく、日本人であった可能性が高いと思われます。ただし、日本人の場合、天草・隠岐・志摩などと日本国内の出身地を明記しており、「本島ヨリ出漁スルモノ」という記述だけからは、日本人ではない可能性も残しています。”<BR/><BR/>この“では無い可能性”を根拠に“である”と断定する韓国人が学者の中にも多いので、驚きます。ただ、常識的には”漁業の状況”で、”韓国本土間ノ交通船ハ皆無ニシテ在島韓民等協同以テ本邦和船ヲ雇入レ来島スルモノアスルモノアルモ一ヶ年ニ三回ニスキス、又夏期二至レハ全羅道三島地方ヨリ若芽採収ノ為メ二十艘内外来島スルコトアリト雖トモ荷物満載セハ何レモ本土ニ帰航シ其他航海用ニ適スル船舶ヲ所有スルモノナシ”とある所を見ると、鬱陵島の韓人が主体となって鬱陵島から松島に出漁して鮑をとっていた可能性は、これら一連の文書を読む限り、1902年の時点ではほぼないと思われます。<BR/><BR/>“「秘密」云々よりも、この二つの『通商彙纂』は、鬱陵島を担当する日本の行政当局が、「リャンコ島」(ランコ島)を、鬱陵島が担当すべきテリトリーである、と認識していること示す文献であることが重要だと思います。”<BR/>“鬱島郡守による統治を、いわば「追い越して」しまって、日本側の警察官憲が「鬱島郡」の管轄区域をより詳しく把握してしまっていること。これが、1902年の鬱陵島や竹島=独島をめぐる両国の統治状況であり、それを物語るのが、この『通商彙纂』という史料の価値だと思います。”<BR/><BR/>全く同感です。外務省がこうした鬱陵島の日本人、そしておそらく韓国人の現竹島での活動を正確に把握していた事は、国際法の論議にも影響する事になるかもしれませんね。当時の大韓帝国の地図や政府文書に現竹島と断定できるものが全く現れず、こうして日本側の記録にばかり現れるのも、韓国の中央政府がその存在、実態を正確に把握していなかった事をあらわしています。Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-59096227623472077732008-04-17T22:59:00.000+09:002008-04-17T22:59:00.000+09:001902年(明治35)10月16日付『通商彙纂』(234号)について、去年5月ごろ、あるところに書い...1902年(明治35)10月16日付『通商彙纂』(234号)について、去年5月ごろ、あるところに書いた文章を一部修正の上引用します。ここでの議論と重複するところがありますが、ご批判をお待ちします。<BR/>・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<BR/>私は、この1902年『通商彙纂』は、非常に重大な意味を持つ文献だと思います。実は、東京の「外交史料館」に残されている、<BR/>「文書番号6-1-6-10『釜山領事館報告書』その2」<BR/>という文献が、この『通商彙纂』(234号)のもとの史料です。<BR/><BR/>欝陵島には、1902年から、釜山領事館から警察官が派遣されて駐在していました。半年交代で派遣される4人の警察官の第一陣として、3人の巡査とともに赴任した西村銈象警部の報告です。1902年(明治35年)4月28日に着任し、約1か月後の5月30日付けで釜山領事館に報告をあげています。当時の釜山領事だった幣原喜重郎から、外務大臣小村寿太郎へ報告があがったのが6月27日。これが10月16日付け『通商彙纂』(234号)となって印刷されたのです。一部が省略されていたり、若干の語句の修正はありますが、活字になっている『通商彙纂』の文章は、この西村警部の報告そのものです。<BR/><BR/>この報告では、リャンコ島について、<BR/>「又、本島ノ正東、約五十海里ニ、三小島アリ。之ヲ、リヤンコ島と云ヒ、本邦人ハ松島と稱ス。」(句読点追加)と書いています。「本邦人ハ松島と稱ス」という記述から竹島=独島のことに間違いありません。<BR/><BR/>この報告が、リャンコ島について「約五十海里」(約90キロ)という、非常に正確な位置を記していることに注目したいと思います。<BR/>鬱島郡守・沈興澤が、4年後の1906年の報告に、「百里外(または百里許)」と書いていたのと比べると(韓国の1里は0.4キロ、すなわち百里は40キロ)その把握力に差があります。やはり、海軍を持っていた日本との差が大きかったのだと思います。<BR/><BR/>そして、「欝陵島に拠点を置く行政主体」が、「リャンコ島」(=竹島・独島)について具体的に語った、確実な文献史料としては、これが初めてではないかと思うのです。<BR/><BR/>もちろんこれまでも、日本側から鬱陵島に渡った人々の竹島の記録としては、それこそ江戸時代からたくさんあります。一方韓国側も、新羅の于山国から朝鮮王朝実録まで、たくさんのことが、書かれてはいます。<BR/><BR/>しかし、1880年代以降、実際に鬱陵島に派遣された韓国側の官僚たちによって、この島の実態について「具体的な言及」は、全くなされていないのです。<BR/>李奎遠の報告(1882)にも、禹用鼎の報告(1900)にも、「独島」は一言半句も言及されていません。またその直前に欝陵島を探検した官僚たちによっても、欝陵島の地図が報告されているとのことですが(宋炳基『欝陵島と独島』2005)、その中にも于山=松島=独島の記述はないのです。<BR/><BR/>1900年、禹用鼎と合同調査の赤塚正助報告でも、附属地図の「空島」が「孔岩」であるにせよ、ないにせよ、ここには「石島」も、「独島」も、「リャンコ島」も、「松島」も、書かれていないことを確認しておきたいと思います。<BR/><BR/>赤塚正助一行は、この報告を書くにあたり、地元のインフォーマントの情報をまとめたものと思われます。彼らは島監の裵季周の家を根拠地に調査をしていますから、この地図を作るにあたっても、情報提供は島の主だった人々から受けていると思われます。もちろん、この時の合同調査の主目的は、伐木問題や日韓人の間のトラブルでしたから、漁業や周辺島嶼については関心が薄かったものとは思われますが、当時の鬱陵島人の意識の中には、鬱陵島の属島としてのリャンコ島=独島=竹島はなかったことも、この地図からうかがえるのではないかと思います。<BR/><BR/><BR/>さて、西村報告=『通商彙纂』について詳しく見ます。この史料については、かつて姜萬吉氏が京郷新聞に紹介し(1996年2月15日)、最近、玄大松氏(『領土ナショナリズムの誕生』2006)が、そのまま引用する形で、竹島の日本領土編入が「秘密裏に行われた」とする根拠の一部として紹介しています。姜萬吉氏は新聞投稿のせいか史料を注記していませんが、玄大松氏は原資料から日本語に起こし『通商彙纂』と注記してくれたために、原文に当たることができました。私は、この1902年『通商彙纂』は、非常に重大な意味を持つ文献だと思います。<BR/><BR/>姜萬吉氏は「1902年10月10日に釜山駐在在日本領事館が本国へ送った鬱陵島事情報告書」と書き、玄大松氏もそのように引用していますが、この原文は見つかりません。<BR/>『官報』には1902年12月11日に、西村報告をもとにしたと思われる鬱陵島の人口についての簡単な報告はありますが、10月10日づけの「釜山駐在在日本領事館の本国への報告書」はありません。<BR/>ちなみにこの『通商彙纂』(1902年10月16日 234号)では、「領事館報告」という形ではなく、日付もなく、「韓国鬱陵島事情」というタイトルで、文責は「外務省通商局」となっています。(当時の通商局長は、たぶん、杉村濬です。)<BR/><BR/>目次をみると、鬱陵島の地勢、在島韓民の状況、物産、船舶停泊場、本邦在留人概況、商況、漁業の状況、気候、伝染病、組合規約について報告しています。<BR/>このうち、「第七 漁業の状況」として、次のように書いています。<BR/><BR/>本島ノ漁業季節ハ例年三月ヨリ九月迄ニシテ、収穫物ハ鮑、天草、海苔、若芽ノ数種ニ過キス。<BR/>漁業者ハ多ク熊本ノ天草、島根ノ隠岐、三重ノ志摩地方ヨリ渡来ス。而シテ韓人漁夫ハ皆無ノ有様ナレト、毎年、全羅道三島地方ヨリ多数ノ漁夫等渡来シ、海岸ニ満生スル若芽ヲ採収セリ。本年ハ、天草隠岐ノ漁業者、都合水潜器船八隻、道洞ヲ本拠ト定メ、又志摩ノ蛋船二隻、天草ノ海士舟一隻ハ、苧洞ニ仮小屋ヲ構ヘ、何レモ全島ノ海岸ヲ巡漁セルモ、今年ハ昨年ニ比シ、余程不漁ナルニヨリ、利潤多カラサル見込ナリト云ヘリ。<BR/>又、本島ノ正東、約五十海里ニ、三小島アリ。之ヲ、リヤンコ島と云ヒ、本邦人ハ松島と稱ス。<BR/>同所ニ多少ノ鮑ヲ産スルヲ以テ、本島ヨリ出漁スルモノアリ。然レトモ、同島ニ飲料水乏シキニヨリ、永ク出漁スルコト能ハサルヲ以テ、四五日間ヲ経バ本島ニ帰航セリ。<BR/><BR/><BR/>この、本島=欝陵島からリャンコ島にアワビを求めて出漁しているのが、韓国人か、日本人かは、この文面だけでは不明です。しかし、この報告には、「韓人漁夫ハ皆無ノ有様」とありますから、韓国人ではなく、日本人であった可能性が高いと思われます。ただし、日本人の場合、天草・隠岐・志摩などと日本国内の出身地を明記しており、「本島ヨリ出漁スルモノ」という記述だけからは、日本人ではない可能性も残しています。<BR/><BR/>そしてこれは、まだ中井養三郎がリャンコ島で本格的にアシカ漁を始める1年前のことです。中井が、はじめてリャンコ島にて「日章旗を岩上に翻した」のは、翌1903年(明治36年)5月のことでした。(奥原碧雲『竹島及鬱陵島』1907、55p)<BR/><BR/>また、この報告には、「第二 在島韓民の状況」として、欝陵島の「各集落ごとの人口」が、韓国人・日本人それぞれについて詳細に記されています。4月に赴任した警察官4人が、実際に島中の集落をまわって調査したのではないかと思われます。<BR/>欝陵島で集落ごとの人口を記したものとしては、5年前の『独立新聞』(1897年4月8日)にのった、かなり詳しいものがありますが、足し算すると数字が合わず、不正確です。欝陵島で、正確な集落ごとの人口が把握され、記録されたのは、この西村報告が初めてなのではないでしょうか。「近代的統治」とは、良くも悪くも、かくなるものかな、と思わせます。<BR/><BR/>警察官が配置され、情報収集がより精密になり、それによって、リャンコ島についても書かれ、報告されるようになったのではないでしょうか。この史料が、リャンコ島が「鬱陵島の人間の認識に入っているのが確認できる」最初の文献史料という所以です。ただし、リャンコ島は、あくまで「漁業の状況」の中にあり、「鬱陵島の地勢」には入っていません。ここではテツセミ=竹島=竹嶼、島牧=観音島、三本立、俵島が紹介されています。<BR/><BR/><BR/>さてしかし、ここで問題は、この調査記録が、リャンコ島について「韓国鬱陵島事情」というタイトルのもとで記述していることです。あくまでも漁業のことではありますが、それが「隠岐」の事情ではなく、「韓国鬱陵島事情」として書かれていること。そして、それを「外務省通商局」が、オーソライズしてしまっていること。これはまさに「当時、日本では、リャンコ島を、欝陵島に関係するものとして認識していた」という事例を、またひとつ、決定的に加えてしまっていることになるのではないかとも思われます。<BR/><BR/>この認識は、<BR/>葛生修亮『韓海漁業指針』(1904年1月4日発行。ただし、最初の、雑誌『黒竜』第2号への発表は1901(明治34)6月)から、<BR/>岩永重華編『最新韓国実業指針』(『朝鮮協会』、1904年8月7日刊 山座円次郎序文)、<BR/>田淵友彦『韓国新地理』(1905年9月9日刊 博文館)と続いて行く、韓国江原道・欝陵島の項目における「ヤンコ」の記述とも軌を一にしています。<BR/><BR/><BR/>さらに、日本領土編入後の1905年7月31日付の有吉明釜山領事の報告「鬱陵島現況」でも、同様な認識を、公式な文書にしています。<BR/>『通商彙纂』9・3(明治38年50号) 在釜山帝国領事館報告<BR/>『官報』 9・18 釜山駐在帝国領事有吉明の報告<BR/> (このふたつは、同文です)<BR/>ここでは、中井養三郎たちが行っていたと思われる「ランコ島」の「とど漁」について記していますが、領土編入をまたがって、まったく同様に「鬱陵島現況」として「ランコ島」について記述しています。<BR/><BR/>先述のように、姜萬吉氏はこの後者をもって、日本政府が独島の日本領土編入を秘密にしていたので、釜山領事すらもその事実を知らず、「竹島」とせずに「ランコ島」としている、と書いていますが、これは考えにくい解釈だと思います。鬱陵島を直接担当する釜山領事館に領土編入を教えないことはありえないことだと思われるからです。これは、日本海海戦の東郷平八郎長官が、電文に「竹島」と打たずに「リヤンコールド岩」と打ったのと同じだと思います。日本政府が、東郷長官に領土編入を「秘密にしていた」とは、考えられないからです。<BR/><BR/>「秘密」云々よりも、この二つの『通商彙纂』は、鬱陵島を担当する日本の行政当局が、「リャンコ島」(ランコ島)を、鬱陵島が担当すべきテリトリーである、と認識していること示す文献であることが重要だと思います。<BR/><BR/>そして、非常にアイロニカルなことだと思いますが、この報告が、もしも「鬱島郡守よって」、「大韓帝国の内部」あてに、送られたものだったとしたら、これは、立派に「韓国による実効統治」をあらわす文献にもなりうるということです。<BR/><BR/>しかし、実際には、鬱島郡守による統治を、いわば「追い越して」しまって、日本側の警察官憲が「鬱島郡」の管轄区域をより詳しく把握してしまっていること。これが、1902年の鬱陵島や竹島=独島をめぐる両国の統治状況であり、それを物語るのが、この『通商彙纂』という史料の価値だと思います。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-31980382166388388452008-04-13T20:08:00.000+09:002008-04-13T20:08:00.000+09:00>高在浦 is pronounced as "Gojae-po," but as I wrote a...>高在浦 is pronounced as "Gojae-po," but as I wrote above, I think they may have misread 停石浦, which is pronounced as "Jeong-seok-po."<BR/><BR/>I think 高在裏Gojae-po and 亭石浦Chon-sok-po are completely different charactor and pronunsation.<BR/><BR/>I remember ,but Im not sure the source that Gwaneumdo had called other name of Ggak-sae- seom.<BR/><BR/>Someone explain it Ggak-sae is local name of <A HREF="http://en.wikipedia.org/wiki/Brown_Booby" REL="nofollow">Brown_Booby</A>, but I doubt it is something strange and it is also similar with Ga-ji-do可支島,GTOMRhttps://www.blogger.com/profile/06881539471132140299noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-44055100109017755372008-04-13T14:06:00.000+09:002008-04-13T14:06:00.000+09:00Kaneganese,Thank you.Yes, 島牧 (Do-mok - Island Neck...Kaneganese,<BR/><BR/>Thank you.<BR/><BR/>Yes, 島牧 (Do-mok - Island Neck) is a strange name for a Korean island since islands in Korea usually end in 島, not begin with it. Actually, the name suggests a "cape" rather than an island, but in his 1882 report, Lee Gyu-won did refer to Gwaneumdo (觀音島) as an island, which he called 島項 (Dohang - Island Neck). Also, as you know, there are two Korean maps from the 1800s that also refer to Gwaneumdo as an island called "Small Udo" (小于島) and "Small Gando" (小干島), so I think we have to assume that 島牧 (Domok) was an island, especially since Akatsuka (赤塚) drew it as an island.<BR/><BR/>Yes, I also noticed the mistake with the direction indicator, but I think there may be some other mistakes with the placenames. For example, a 1905 Japanese map of Ulleungdo showed 昌洞, not 呂洞; and 停石浦, not 高在浦. Also, I think it is 臥達里(吏), not 臥建失; 窟岩, not 窟石; and 山幕谷, not 山蕗谷.<BR/><BR/>GTOMR,<BR/><BR/>空島 is pronounced as "Gong-do" in Korean, and 孔巖 is pronounced as "Gong-am."<BR/><BR/>高在浦 is pronounced as "Gojae-po," but as I wrote above, I think they may have misread 停石浦, which is pronounced as "Jeong-seok-po."<BR/><BR/>臥建失 is pronounced as "Wa-geon-sil," which suggests that the person who copied the Chinese characters from the map did not know much about Ulleungdo geography. As I wrote above, I think it should be 臥達里, which is pronounced as "Wa-dal-ri."Gerry Bevershttps://www.blogger.com/profile/14311939520870098017noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-50480974793191998742008-04-13T11:23:00.000+09:002008-04-13T11:23:00.000+09:00There are many place name of Mok牧 ,although I just...There are many place name of Mok牧 ,although I just thought 牧mok is rare pattern e.g. 横浜本牧,and so on.<BR/><A HREF="http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E3%82%82%E3%81%8F%E3%80%80%E7%89%A7%E3%80%80%E5%9C%B0%E5%90%8D&lr=lang_ja" REL="nofollow">牧もく(mok)Place of name)地名 on Google</A><BR/><BR/><A HREF="http://db.history.go.kr/front/dirservice/ibrowser/searchIpqData.jsp?pItemCode=jh&pStartPg=jh_014_013_01640&pEndPg=jh_014_013_01760" REL="nofollow">The original doccument </A>surely wrote 島牧 (see:P13)<BR/><BR/><A HREF="http://www16.tok2.com/home/otakeshimaoxdokdox/Japan.ArgonautDageletLiancourtRocksMapGallary/Detal%20Ulluengdo%20Maps%20JPN.htm" REL="nofollow">The place of name list northeast of Ulluengdo,nearby Sokbo area around 1900</A><BR/>After 1900, there occured name of ”観音”?<BR/><BR/>Gerry,by the way, 空島 is Gondo in Korean pronunsation? I heard 孔巖 is called Gong-am?<BR/>and how to call 高在浦 and 臥建失(maybe Wadari) in Sokbo area?GTOMRhttps://www.blogger.com/profile/06881539471132140299noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-17606407061300823482008-04-13T02:51:00.000+09:002008-04-13T02:51:00.000+09:00Pacifist,I first thought it is "牧島" just like you ...Pacifist,<BR/><BR/>I first thought it is "牧島" just like you when I looked traced version, but it looks like "島牧" on the original map Gerry linked above. It is one of Seoul Uni's mistakes, apparently. I sincerely hope them to stop making such easy mistakes. It is too confusing. <BR/><BR/>Japanese's labelling island as "島牧" sounds extremely wierd to me. He wrote "亀尾" as well which is impossible to be pronounced as "gumi" in Japanese. Thus it is natural for us to consider it wasn't Akatsuka who had chosen "牧" to express Korean pronounciation, but Korean taught how to spell in Chinese to him. I personally believe Akatsuka depicted one independant island which local Korean usually recognized as a streach from cape (island neck) and wrongfully labelled Kwanundo as "島牧" which should be labelled between the cape and Kwanundo.Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-78838180734615139272008-04-13T02:28:00.000+09:002008-04-13T02:28:00.000+09:00Dear evrybody,May I point out again that 観音崎 (Kan-...Dear evrybody,<BR/><BR/>May I point out again that 観音崎 (Kan-non-zaki) must be a cape, not a strait in Japanese language?<BR/>The word 観音崎 in the map was certainly written to indicate the cape - the remaining process after the tip of the original cape was cut off as an island. <BR/><BR/>So 牧島 or 島牧 can't be an "island neck". As everybody can see, it was drawn as an island, not a peninsula. And as I wrote before, the word 牧島 seems to be right as Japanese used to write words from right to left in those days.pacifisthttps://www.blogger.com/profile/14100903035796287895noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-1295878734466569282008-04-12T19:25:00.000+09:002008-04-12T19:25:00.000+09:00By the way, I've noticed some mistakes of the new ...By the way, I've noticed some mistakes of the new copied map on the kyujangak site. I think they should be more careful when they copy the old document. Too careless.<BR/><BR/>1. Direction (Takeshima is on East in original, but it is on South.)<BR/>2. A few rocks are added.<BR/>3. 空島 is smaller compared to the original.<BR/>4. It looks like "牧島", not "島牧".Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-31828974858282643942008-04-12T19:04:00.000+09:002008-04-12T19:04:00.000+09:00Gerry,"In order words, maybe characters rarely use...Gerry,<BR/><BR/>"In order words, maybe characters rarely used in normal speech were used to represent the sounds in other languages?" <BR/><BR/>"牧" itself is a very common character in Japanese, but pronouncing "Moku" is rare. If you write "島牧", Japanese would pronounce it as "Tou-Boku" 99 out of 100. But when it comes to proper noun, it is common to adopt irregular pronounciation, espeially in the case the names had been used since ancient times in Japan. This is only my speculation, but I assume it was Korean who were using this particular Chinese character and Japanese only recorded it, from this point of view. That's why I'm interested in 禹's report which Korean claims they lost but only a part of it was open to public.<BR/><BR/>By the way, is it possible that this "島牧" only indicate that Kwanundo was not regarded as an independant island, but just a long cape or something? <BR/><BR/>As for this document, it looks like being Xerox copied. I guess it is in Archives of the official document in Japan, though I haven't seen it before either.Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-20840429288236865572008-04-12T19:02:00.000+09:002008-04-12T19:02:00.000+09:00As far as I know, the Akatsuka赤塚's reprot is not o...As far as I know, the Akatsuka赤塚's reprot is not on other websites.<BR/><BR/>They add some old doccument and translation day by day.Last time I had checked the Kyuujangak site ,maybe last year, I couldn't find the Akatsuka赤塚's map and report on 1900.<BR/><BR/>As far as I know, 鬱陵記 has no mentioned about other anjunctive islands. Im not sure if I read "all" of 鬱陵記 contents or not an if Korean disclosure all the parts or not. <BR/><BR/>I wonder The Korean emperror or other goverment staff can understand what 禹用鼎's report if there are no attached map of Ulleungdo?GTOMRhttps://www.blogger.com/profile/06881539471132140299noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-11609703528438125482008-04-12T18:17:00.000+09:002008-04-12T18:17:00.000+09:00Kaneganese,I have already saved the document and m...Kaneganese,<BR/><BR/>I have already saved the document and map and plan on posting them after I translate the Korean translation of the Japanese.<BR/><BR/>Regardless of who came up with the character 牧 to represent the pure Korean word for "neck" (mok), isn't it possible that the character was chosen because it WAS rarely used and, therefore, would not have been confused with the Sino-Korean name for the island? In order words, maybe characters rarely used in normal speech were used to represent the sounds in other languages?<BR/><BR/>If you mean the "Uldogi" (鬱島記), I do not remember any neighboring islands being mentioned in the translation I read, but I do not remember if I read it all, either.<BR/><BR/>By the way, I wonder if the Japanese document and map are just copies of the originals? Or does Korea have the originals for some reason? I am asking because I have not seen the document or map posted on any Japanese Web site.Gerry Bevershttps://www.blogger.com/profile/14311939520870098017noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-90029511071523698442008-04-12T17:35:00.000+09:002008-04-12T17:35:00.000+09:00Gerry,Thank you for the link to the original docum...Gerry,<BR/><BR/>Thank you for the link to the original document. Is it possible to save this document? <BR/><BR/>As GTOMR already commented above, Japanese does sound 牧 as "Moku", but it is extremely unusual.<BR/><BR/>"Japanese pronunsation of ”牧ノ”are assumed that<BR/>1.Makino(post by Kaneganese,this pronunsation is most credible) <BR/>2.Boku-no/"MOKU-no"/Mako-no (some irregular pronunsation)"<BR/><BR/>If 赤塚, Japanese, was the one who had chose to use Chinese character in order to express Korean pronounciation "Moku", I think he would have had used other ordinary character. If he was, then there must be more strong reason to use 牧, like Korean already used it, or there are something that has some relationship with grazing land or officer which are the meaning of "牧". <BR/><BR/>By the way, I haven't read all of 禹用鼎's report yet. Did you? I think his report is more important than Akatsuka's since 禹 was the one who committed to make 1900 Imperial Edict when it comes to 石島. If Kwanundo was called 島牧 or similar as well in his report, it is a good evidence to support your theory, yes.Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-6053004055204930852008-04-12T17:33:00.000+09:002008-04-12T17:33:00.000+09:00Thank you, GTOMRI've browsed the document and I ag...Thank you, GTOMR<BR/><BR/>I've browsed the document and I agree that this is very interesting document.Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-89898169330503957902008-04-11T00:21:00.000+09:002008-04-11T00:21:00.000+09:00GTOMR,That is a very, very interesting map and doc...GTOMR,<BR/><BR/>That is a very, very interesting map and document. I will try to post it as soon as I can. <BR/><BR/>By the way, there is a link to the original document and map in the post. You can see the original <A HREF="http://db.history.go.kr/front/dirservice/ibrowser/searchIpqData.jsp?pItemCode=jh&pStartPg=jh_014_013_01640&pEndPg=jh_014_013_01760" REL="nofollow">HERE</A>.<BR/><BR/>Pacifist & GTOMR,<BR/><BR/>In Korean, 島牧 is pronounced as "Do-mok. The word "mok" (목) is the pure Korean word for "neck," so "Do-mok" literally means "Island Neck." As I am sure you remember, in 1882, Lee Gyu-won referred to Gwaneumdo as 島項, which is the Sino-Korean word for "Island Neck," so what seems to have happened is that by 1900, the Korean residents on Ulleungdo had started using the pure Korean name for "Island Neck" instead of the Sino-Korean. Then it seems that the Japanese on the island or the Japanese inspector, himself, just chose the character 牧 to imitate the sound of the pure Korean word for "neck."<BR/><BR/>I think this document is evidence that that the 石島 in the 1900 Imperial Edict was not referring to Gwaneumdo (觀音島) nor to any specific island, but was only a catchall word used to include all the other rocky islets around Ulleungdo.<BR/><BR/>I think this is a very important map because this map was made during the inspection that led up to the 1900 edict.Gerry Bevershttps://www.blogger.com/profile/14311939520870098017noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-40096898219923307682008-04-10T23:35:00.000+09:002008-04-10T23:35:00.000+09:00dear gtomr,The map is quite interesting.However, m...dear gtomr,<BR/><BR/>The map is quite interesting.<BR/>However, may I ask you about the name of the small island just off from the cape (観音崎, this must be a cape, not a strait)?<BR/><BR/>In around 1900, Japanese used to write sentences from right to left. So I think that the name of the small island should read as 牧島, which may pronounce as "Maki-jima", " Maki-shima" or "bokutou".<BR/>Am I wrong?pacifisthttps://www.blogger.com/profile/14100903035796287895noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-32540107671312242522008-04-10T20:25:00.000+09:002008-04-10T20:25:00.000+09:00I found the Japanese Map which they discribes 観音島 ...I found <A HREF="http://db.history.go.kr/file/image/jh/illustration/jh_014r_013_002.jpg" REL="nofollow">the Japanese Map which they discribes 観音島 as 島牧 and the strait as 観音崎.</A><BR/>The map is in 1900, the survey of ULleungdo with 赤坂 and La Porte?<BR/><BR/><A HREF="http://db.history.go.kr/url.jsp?ID=jh_014r_0130_0470" REL="nofollow">The map was attached on the report from 赤塚正助 ,the staff of Japan Consulate in Busan.</A><BR/><BR/>The post here"1902 Ullengdo report by Japanese", based on the information above, I guess.<BR/><BR/>I wanna read orininal doccument of this written in Japanese, who can I read it? tell me anyone?GTOMRhttps://www.blogger.com/profile/06881539471132140299noreply@blogger.com