tag:blogger.com,1999:blog-26948035.post7319277917619903225..comments2024-01-26T17:48:29.804+09:00Comments on Dokdo-or-Takeshima?: 1893 Map of Samcheok (三陟) and Ulleungdo (鬱陵島)Gerry Bevershttp://www.blogger.com/profile/14311939520870098017noreply@blogger.comBlogger47125tag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-43988281334824135462010-12-08T14:45:01.387+09:002010-12-08T14:45:01.387+09:00上にmatsuさんが訳して下さった中にありました。
여재촬요(輿載撮要)② 別の百科事典 その1
...上にmatsuさんが訳して下さった中にありました。<br /><br />여재촬요(輿載撮要)② 別の百科事典 その1<br /><br />http://100.nate.com/dicsearch/pentry.html?s=K&i=241896&v=44<br /><br />1冊の木版本『輿載撮要』は、写本の『輿載撮要』から各種の序文と跋文を省略し、両半球図と道別分図以外のすべての地図を省略した。<b>単巻木版本は、学部で刊行されたことは確実</b>だが、著者と刊記が明記されていない。Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-83265848174241512672010-12-08T14:38:34.057+09:002010-12-08T14:38:34.057+09:00This comment has been removed by the author.Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-2835567172002032682010-12-08T01:20:22.512+09:002010-12-08T01:20:22.512+09:00Kaneganeseさま
はあ、これが『電子図書』というものですかね。
随分便利なものですね。(検...Kaneganeseさま<br /><br />はあ、これが『電子図書』というものですかね。<br />随分便利なものですね。(検索で引っかかるのが素晴らしい)<br /><br />コピーペーストできないので、写さなければいけないので大変ですが。<br /><br />한국 개화기 서적 문화 연구は、『韓国開化期書籍文化研究』で<br />この210ページ付近にある一覧表は大変面白いと思います。<br />ちょっと前の208ページに「国内地理」とあり、当時の地理の教科書の一覧ですね。<br />1905年以前のものもあり、これらの本の中に、はたして「鬱陵島と独島」はどう出ているのか。きっと鬱陵島はあっても独島はない、というのが、ひとつひとつ確認できそうに思います。<br /><br />1895 学部編修局 「朝鮮地誌」<br />1896 学部編修局 「地●略誌」<br />1896 学部編修局 「輿載撮要」<br />1899 玄採 「大韓地誌」<br />1903 「我韓境域考」<br /><br />このうち、1899 玄采「大韓地誌」はすでに有名で、<br />1903 「我韓境域考」については、ここでも触れた記憶があります。<br /><br />「輿載撮要」は吳宖默のものを学部(=文部省)がぱくって出版したのではないでしょうか。吳宖默の原本は10巻本だったはずで、1巻の木版本は学部から出たのかもしれませんね。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-79661109552324804212010-12-07T12:56:03.227+09:002010-12-07T12:56:03.227+09:00『士民必知』を検索していたら、『한국 개화기 서적 문화 연구』
著者: Bong Hee Kim...『士民必知』を検索していたら、『한국 개화기 서적 문화 연구』<br /> 著者: Bong Hee Kimという本に『輿載撮要』が学部編集局編、学部発行となっていました。年代が1896年となっているので、違う本でしょうか。<br /><br />http://books.google.co.jp/books?id=Oo2TePnPg_YC&pg=PA215&lpg=PA215&dq=%E5%A3%AB%E6%B0%91%E5%BF%85%E7%9F%A5%E3%80%80&source=bl&ots=LuXBp53L3X&sig=VPxPNCoNGD6ysR366JY2-SPvKDQ&hl=ja&ei=-pf9TMTXFYnkrAeJ5d3_Bw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=3&ved=0CCUQ6AEwAjgK#v=onepage&q&f=false<br />(210ページ)Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-78637189972604428762010-12-03T09:46:14.877+09:002010-12-03T09:46:14.877+09:00Chaamieyさん
ブログに載せていただき、ありがとうございました。
http://blogs....Chaamieyさん<br /><br />ブログに載せていただき、ありがとうございました。<br />http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/52945027.html<br /><br />多忙でしばらく投稿できませんでした。<br /><br />この『朝鮮地図』は、もっと知られて良いと思います。<br />いま奎章閣に残る「奎16030」の地図が、申景濬の作った「現物」ではあるのか、ないのか、(李起鳳は「現物だ」と言っているようです)、現物ではないにしても、<br />少なくともその「写本」であることは、呉尚学や金基赫を含めて、韓国の地図学者はみな認めているようです。ということは、ここに描かれた「于山」が、「申景濬の認識していた倭の所謂松島」であることは動きません。<br /><br />Chaamieyさんのブログにも地図を載せていただいていますが、この『朝鮮地図』の「于山」と、実際の竹島=独島の位置を比べれば、当時の朝鮮の朝廷が「竹島=独島の実態」を知らなかったことは明白です。<br /><br />『粛宗実録』にのる安龍福の証言、あるいは備辺司などの他の情報も申景濬は持っていたのかもしれませんが、それにあわせて、これまでの「竹嶼」の位置から、「やや遠い」位置に于山島の位置をずらせたため、このような図示になったのだと思います。<br />それは結局、「アルゴノート」が実際には存在しない島だったように、あらたな「幻影」をつくったのに過ぎなかったのでしょう。<br /><br />欝陵島に派遣された何人もの捜討官たちが、誰一人として、実際に竹島=独島に行っていないことは明らかですし、当時の朝鮮の朝廷が、竹島=独島を領土として把握をしていなかったことも明白です。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-12053942516488366382010-12-01T19:19:21.982+09:002010-12-01T19:19:21.982+09:00GTOMRさん
『士民必知』(1895)のご紹介、ありがとうございます。(”土”民ではないようです...GTOMRさん<br /><br />『士民必知』(1895)のご紹介、ありがとうございます。(”土”民ではないようです。)ハルバートが原著者のようですね。<br /><br />「朝鮮国者幅圓自北緯線三十五度至四十三度自東経線一百二十三度至一百三十一度」と、朝鮮半島ではなく、朝鮮国の領域の説明になっています。議政府の発行したもののようですね。 Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-49760342869320962082010-12-01T19:13:04.838+09:002010-12-01T19:13:04.838+09:00This comment has been removed by the author.Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-44348722267287298502010-12-01T14:53:51.029+09:002010-12-01T14:53:51.029+09:001895.土民必知
金澤榮
大韓帝国の東端は欝陵島までのようで。
東経123-131度までのよう...<a href="http://seaofjapan-noeastsea.blogspot.com/2010/12/1895.html" rel="nofollow">1895.土民必知</a><br />金澤榮 <br /><br />大韓帝国の東端は欝陵島までのようで。<br />東経123-131度までのようです。<br />*参考:欝陵島東端が130’56 島根竹島が131.55GTOMRhttps://www.blogger.com/profile/06881539471132140299noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-23221055139667426762010-11-21T19:51:29.211+09:002010-11-21T19:51:29.211+09:00caprizz さま
こんにちは!
ひょっとしてcapriさん?
頓珍漢じゃないですよ~。貴重...caprizz さま<br /><br />こんにちは!<br /><br />ひょっとしてcapriさん?<br /><br />頓珍漢じゃないですよ~。貴重な情報、ありがとうございます。チャン・サンフン国立中央博物館演芸研究官のお名前は初めて聞きます。<br /><br />李瀷と鄭尚驥は姻戚関係だったのですね。実学者仲間だと思っていました。どちらが先だったのでしょうね。どちらにせよ、『東国地図』『朝鮮地図』の于山島は竹嶼であることは明白です。特に後者は方眼入りですから。<br /><br />matsuさん<br /><br />いつも翻訳ありがとうございます。<br />金基赫氏はイ・ギボン氏とはまた違う意見のようにも読めます。<br /><br />chaamieyさん<br /><br />そのうち独立して投稿したいと思います。Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-52234147327497417242010-11-21T18:33:19.073+09:002010-11-21T18:33:19.073+09:00大東輿地図がうまく出ない(涙)大東輿地図がうまく出ない(涙)Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-52940432960292505602010-11-21T18:30:49.362+09:002010-11-21T18:30:49.362+09:00誤打してしまいました。
「に于山島がないわけ」と途切れていますね。
正しくは「に于山島がないわけ」
...誤打してしまいました。<br />「に于山島がないわけ」と途切れていますね。<br />正しくは「に于山島がないわけ」<br />ですAnonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-18823654871384157912010-11-21T18:28:06.563+09:002010-11-21T18:28:06.563+09:00はじめまして、そしてこんにちは。
申景濬の地理的な認識は朝鮮地図の「于山」の位置だったんでしょう。...はじめまして、そしてこんにちは。<br /><br />申景濬の地理的な認識は朝鮮地図の「于山」の位置だったんでしょう。<br />でも、韓国の人に言わせれば、「そんなの前から知っているよ。また、その地図に描かれた于山島は独島だ!」と心の中では整合性が取れているんでしょう。<br /><br />ところでこんな文もあります。<br />「に于山島がないわけ」<br />チャン・サンフン国立中央博物館演芸研究官<br />Dokdo Research Journal 2010.Spring.vol09<br />↓<br />http://www.land.go.kr/document/info/cartology/cartology_06_789.pdf<br />朝鮮の古地図で鬱陵島と于山島の位置や大きさの認識が変わったのは、星湖李瀷と姻戚の鄭尚驥が先だったのか?、申景濬が先だったのか?どちらが影響を受けたかは、紹介された解説だけでは、まだ微妙な感じ。<br /><br />うーん、頓珍漢なレスをしちゃったかな。。。。お邪魔してすみません。ではAnonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-65014739102743735742010-11-21T00:32:40.733+09:002010-11-21T00:32:40.733+09:00우산은 왜인이 말하는 바의 마쯔시마(송도)가 아니었다 는 사실이 명확하게 되었다.
우산...우산은 왜인이 말하는 바의 마쯔시마(송도)가 아니었다 는 사실이 명확하게 되었다.<br /><br />우산은 왜인이 말하는 바의 마쯔시마(송도)가 아니었다 는 사실이 명확하게 되었다.<br /><br />우산은 왜인이 말하는 바의 마쯔시마(송도)가 아니었다 는 사실이 명확하게 되었다.<br /><br />우산은 왜인이 말하는 바의 마쯔시마(송도)가 아니었다 는 사실이 명확하게 되었다.<br /><br /><br /><br /> 「朝鮮地図」に関するmatsuさんの大発見は、改めてメイン・ポストで紹介する価値があると思います。于山島=松島=独島説は終わりですね。<br /><br /><br /><br /><br />2010.11.21<br /><br /> Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-19387789861177545022010-11-19T01:14:10.911+09:002010-11-19T01:14:10.911+09:00参考文献
金基赫2004,「青丘図の異本類型研究』『韓国地域地理学会』発表抄録文
金基赫2007,「...参考文献<br />金基赫2004,「青丘図の異本類型研究』『韓国地域地理学会』発表抄録文<br />金基赫2007,「朝鮮後期方眼式郡県地図の発達研究―「東国地図3」を中心に」『文化歴史地理』19(1),19-36<br />金基赫2008,『釜山古地図』、釜山広域市.<br />金基赫他2005,「朝鮮後期郡県地図の類型研究―東莱府を事例にー」『大韓地理学会誌』40(1),1-26.<br /><br />楊普景1992「18世紀備辺司地図の考察―奎章閣所蔵道別郡県地図集を中心に―」奎章閣、15,93-144<br />楊普景1995「大東輿地図を作るまで」『韓国市民講座、16,84-121.<br />楊普景1999「日本大阪府立図書館所蔵朝鮮図の考察」書誌学研究、17,421-435.<br />呉尚学2001「古山子・金正浩の地図製作とその意義」『古山子・金正浩研究報告書』27-102.<br />李相泰1999,『韓国古地図発達史』鋭い洞察力.Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-83206530391797136882010-11-19T01:13:32.802+09:002010-11-19T01:13:32.802+09:00これら大縮尺の朝鮮全図は、同じ方眼図法をもとに製作された。これらの地図に収録された地名、河川流路、山...これら大縮尺の朝鮮全図は、同じ方眼図法をもとに製作された。これらの地図に収録された地名、河川流路、山脈などの地理情報は、20里方眼をもとに製作された郡県地図とほとんど一致していて、方眼体系も似ている。しかし、地図製作にもとになった方眼関連内容では、地図ごとに少なくない差異が存在する。特に木版本『大東輿地図』と、これの底本の『青丘図』は、収録地名だけではなく方眼の座標体系での多くの違いを見せている。<br /><br />[図6-14] 『大東輿地図』に表現された方案<br /><br />(表6-3)は、『青丘図』と木版本『大東輿地図』の方眼体系を比較したものである。二つの地図は、全国を10里方眼をもとに画して地図を製作したことは同一だが、方眼の個数に差がある。『青丘図』の場合、南北29層、東西22個の版で分けて、各面を南北10個の方眼、東西7個の方眼で区画し、南北2,900里(290個の方眼),東西1,540里(154個の方眼)をもとに地図を描いた。<br />反面『大東輿地図』の場合、一つの図葉面を南北120里(12個の方眼),東西80里(8個の方眼)で構成し、全国を南北22層、東西は(最大)19版に減らした。東西の長さは1,520里で、『青丘図』と大きな差がないが、南北は2,640里(260個の方眼で『青丘図』に比べて260里(26個の方眼)を減らしている。これは『大東輿地図』の下絵を製作するときに、従来の地図を単純に模写したのではなく、収録地名と共に方眼の座標体系などでも変化を期したことを示している<br /><br />[表6-3] 『青丘図』と『大東輿地図』の方案座標体系の比較<br />『青丘図』 木版本『大東輿地図』<br />南北(縦) 東西(横) 南北(縦) 横<br />体裁(A) 29層 22版 22層19版(最大)<br />面当たり10里方案数(B) 100里(10個) 70里(7個) 120里(12個) 80里(8個)<br />全体10里方案(C=A×B) 290個154個 264個152個<br />全体里数(C×毎10里) 2,900里1,540里 2,640里1,520里Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-43212246297966140232010-11-19T01:12:32.954+09:002010-11-19T01:12:32.954+09:00②大縮尺朝鮮全図と方眼図法
方眼図法で描かれた大縮尺の朝鮮全図は、(表6-2)の通りである。
・・...②大縮尺朝鮮全図と方眼図法<br />方眼図法で描かれた大縮尺の朝鮮全図は、(表6-2)の通りである。 <br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />[表6-2] 方眼図法に描かれた『大縮尺朝鮮全図』<br />所蔵先 表題名 請求記号 形態備考<br />1奎章閣他『青邱図』他 - 筆写本2冊-4冊<br />2国立中央図書館『大東輿地図』古朝61-01筆写本18帖<br />3国立中央博物館『東輿』M-127 筆写本14帖<br />4日本大阪府立図書館『朝鮮図』- 筆写本26冊<br />5奎章閣外20余機関 『大東輿地図』奎10333木版本(辛酉) 22帖<br />6奎章閣外3機関『東輿図』奎10340筆写本22帖<br />7奎章閣 『大東方輿全図』奎10341筆写本22帖<br />8奎章閣外3機関『大東輿地図』古4709-6木版本(甲子) 22帖<br />9嶺南大図書館他5機関 『大東全図』989-11筆写本(模写) 22帖<br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />これらのうち、方眼が描かれた地図は、奎章閣などに所蔵されている『青丘図』、国立中央博物館の『東輿』、および1861年とその後に製作された『大東輿地図』である。<br /><br />『青丘図』は、国内あわせて10点が所蔵されていることが確認されている。これらの本は収録地名と縮尺などの構成において同一だが、製冊の形式と表題、地理情報の収録方法などが互いに違う(金基赫キム・ギヒョク、2004).<br />『東輿』は、14層で構成された分帖折疊式の地図である。表題は『東輿』になっているが、地図の1層に『大東輿地図』の表題が記載されている。全国を南北で14層に区分し、各層は折疊式になり展開してたたむことができるようになっている。14帖の地図を広げて連結すれば、縦5.2m、横2.9m程度の大型の全図になる。<br /><br />木版本『大東輿地図』は、朝鮮時代の地図発達史で頂点にある地図で、我が国の古地図の白眉に選ばれている。分帖折疊式になっていて、各帖の大きさは30.0×20.0cmで22層を集めて付ければ、縦約7m、横約4mとなる。各図葉面は、縦120里、横80里で構成されている(図6-14)。<br /><br />ソウル大奎章閣、国立中央図書館、誠信女子大博物館、嶺南大博物館. 釜山大学校図書館などの色々な機関に所蔵されており、木版は国立中央博物館と崇実大博物館にある。木版は両面に板刻されていて、一面に2個以上の図葉面を板刻した。<br />一方、国立中央図書館所蔵の筆写本『大東輿地図』、日本の大阪府立図書館に所蔵されている『朝鮮図』は、方眼図法をもとに製作されたが、地図上に方眼が描写されていない。奎章閣などに所蔵されている『東輿図』と『大東方輿全図』、甲子本『大東輿地図』および後代の模写本は、内容上木版本『大東輿地図』と座標体系が同一である。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-28295249334695550252010-11-19T01:10:52.520+09:002010-11-19T01:10:52.520+09:00奎章閣の『八道郡県地図』、高麗大図書館の『輿地図』は、体裁と地図の製作水準を見る時、『朝鮮地図』とほ...奎章閣の『八道郡県地図』、高麗大図書館の『輿地図』は、体裁と地図の製作水準を見る時、『朝鮮地図』とほぼ同じ時期に、同じ方法で製作されたものである。<br /><br />国立中央図書館所蔵の『八道地図』は、これらの地図中の一部が、民間によって模写されて製作されたものであり、蔵書閣所蔵の『地図』は、一面にいくつかの郡県を収録する方法で編集・製作されて王室で保管したと推定されている。 高麗大図書館所蔵『地図』は、蔵書閣の『地図』が民間で注記が添付されて模写された地図である。<br /><br />『海東輿地図』に挿入された「経緯全図」の内容と、一部の『青丘図』に挿入された「八道分表」がほとんど似ており、邑治の位置の描写と収録地名において二つの地図が多くの部分で一致することから見て、内容上、同一系列の地図であり、『海東輿地図』が『青丘図』の編纂に重要な役割をしたことがわかる。『大東輿地図』の底本の『青丘図』と、これらの郡県地図が、同じ図法で描かれていて内容も似ており、これら地図の間の関連性と系列について、活発な研究が行なわれた。『海東輿地図』が『朝鮮地図』の内容を底本としているということについて、既存の研究では大部分が一致しているが、大縮尺の全国全図である『青丘図』との関係については意見がある。『青丘図』の底本を『海東輿地図』と見た李相泰 (1999,215-216)の主張に対して、呉尚学(2001,44-46)は、二つの地図冊に描かれた方眼の一致は認めるものの、内容の差を提示しながら経緯線表式の郡県地図冊を直接的な底本としたとするには無理があると見た。そして『青丘図』の底本を、既に存在した大縮尺全図を基本地図として活用したと見て、楊普景(1999)が紹介したことがある『朝鮮図』のような類型の全国全図を例にあげた。これまでの研究を総合してみれば、18世紀に製作された方眼式郡県地図冊は、19世紀の『青丘図』および『大東輿地図』と密接な関係があり、朝鮮後期の地図発達史で重要な位置を占めていることがわかる。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-48054029389226870962010-11-19T01:09:46.139+09:002010-11-19T01:09:46.139+09:00(b)地図の系列
方眼式郡県地図の系列について、金基赫(キム・ギヒョク)(2007)は(図6-13...(b)地図の系列<br /><br />方眼式郡県地図の系列について、金基赫(キム・ギヒョク)(2007)は(図6-13)のように整理したことがある。<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />[図6-13] 方眼図法の郡県地図の類型 資料:金基赫キム・ギヒョク(2007)<br /><br />『東国地図3』→(修正)(加筆) 『東国紙図3』(国立中央図書館)<br />→『海東輿地図』(国立中央図書館)<br />→大縮尺の朝鮮全図(『青丘図』など)<br /><br />→(編集) 『朝鮮地図』(奎章閣)、『八道郡県地図』(奎章閣)、『輿地図』(高麗大図書館)<br /><br />→『地図』(蔵書閣) →『地図』(高麗大図書館)<br />『八道地図』、『輿載撮要』(国立中央図書館)<br />・・・・・・・・・・・・・・・・・<br /><br />『朝鮮地図』は、『東国地図3』が製作された後、郡県別の統一性を期するために再編集されて製作されたことを確認した。編集過程で、道路網が一律的に描写され一部の地理情報を記号や地名(書院、倉、烽)を利用して符号化した。『朝鮮地図』が製作された後、『東国地図3』は修正・加筆が行われ、これをもとに『海東輿地図』が製作されたと見られる。 一部の郡県で黒色で修正・加筆した内容の大部分は『海東輿地図』に反映されているが、『朝鮮地図』には現れていないのがこれを裏付ける。従って、加筆される以前の『東国地図3』は、申景濬が製作した最初の方眼式地図の形態により近いものと見られる。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-45396908751878216412010-11-19T01:08:34.141+09:002010-11-19T01:08:34.141+09:00『朝鮮地図』は、既存の研究で代表的な方眼式郡県地図として紹介されており、奎章閣で影印、発刊して普及し...『朝鮮地図』は、既存の研究で代表的な方眼式郡県地図として紹介されており、奎章閣で影印、発刊して普及した。7冊(全羅道欠本)で構成されている。1750~1768年の間に製作された地図と推定されていて、京畿道の漣川、加平、楊州、抱川、永平の5個の郡県が脱落している。第3冊の江原道と第7冊の慶尚道の目次の部分に「備辺司」の印鑑が押されていて、備辺司で使った地図だということがわかる。すべての郡県の地図が4.2cmの方眼の上に描かれているが、経緯線の数値が記載されていないのが前の二つの地図冊と違う。すべての郡県地図は、同じ地理情報は一定の記号で表示されており、この地図冊が、ある機関によって企画・製作されたことを見せてくれる。<br /><br />これらの地図の他に『八道郡県地図』は、京畿道38郡県、忠清道54郡県、平安道42郡県を3冊で構成した地図冊だ。『朝鮮地図』と内容と品格がほとんど同一である。『朝鮮地図』に脱落している京畿道の5個の郡県も含まれている。<br /><br />『八道地図』(国立中央図書館)は、全国八道が完秩(全部揃った)方眼式の郡県地図冊である。『朝鮮地図』と内容は同一だが、非常に荒々しく描いている。収録された地名から見て、1838年頃に製作された地図と推定されている。 <br /><br />高麗大図書館所蔵『輿地図』は、本来は4冊で構成されたと推定されるが、2冊だけ残っている。第1冊は京畿道・忠清道、第2冊は江原道・咸鏡道の郡県地図が収録されている。 内容は『朝鮮地図』と同一で、地図の品格と地名の書き方も優れている。1762~1776年の間に製作されたと推定されている。<br /><br />『地図』(蔵書閣)は、全国4冊(第1冊;京畿道・咸鏡道、第2冊;忠清道・全羅道、第3冊;黄海道・平安道、第4冊;江原道・慶尚道)からなっていて、地図一つの面に2~8個の郡県が共に収録されている。慶尚道の道別図の地名には安陰と山陰が記載されているが、郡県地図は安義と山清になっていて、二つの地図が英祖代の原本の地図をもとに正祖代に一部の内容を修正して筆写されたと推定される。 <br /><br />高麗大図書館所蔵の『地図』も4冊になっていて、地図の一面に2~8個の郡県が共に収録されており、体裁で見る時、蔵書閣所蔵の『地図』と似ている。しかし第1冊;京畿道・忠清道、第2冊;慶尚道・全羅道、第3冊;江原道・咸鏡道、第4冊;平安道・黄海道となっており、道別の構成では違いがある。他の方眼式地図とは違って、地図の余白に注記を記入したのが特徴である。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-88618579152753580342010-11-19T01:07:08.943+09:002010-11-19T01:07:08.943+09:00この中で最も代表的な地図は、国立中央図書館所蔵の『東国地図3』(図6-11)と、『海東輿地図』(図6...この中で最も代表的な地図は、国立中央図書館所蔵の『東国地図3』(図6-11)と、『海東輿地図』(図6-12)、奎章閣所蔵の『朝鮮地図』だ。<br /><br />[図6-11] 『東国地図3』東莱 資料:国立中央図書館<br />[図6-12] 『海東輿地図』東莱 資料:国立中央図書館<br /><br />『東国地図3』は、慶尚道の各郡県を描いた地図冊だけが残っている。表紙には表題と41個の収録郡県の地名が記載されている。記載された地名は大部分慶尚左道に属している郡県の地名だ。表題名で見ると他の道別地図冊と共に描かれたものと見られる。山清・安義という地名が収録されたことから、英祖43(1767)年以後に製作された地図である。 71個の郡県地図で構成されていて、各地図は長さ4.2cm(20里)の方眼を利用して描いている。郡県ごとに方眼の大きさは同一で邑治に近い方眼の格子を基準として経緯線標の数値がある。彩色筆写本の地図で、一部の郡県で黒色で修正・加筆して内容が追加された場合がある。<br /><br />『海東輿地図』は、3冊(乾・坤・補)で構成され、地図は乾と坤に収録されている。補巻は各郡県の統計を収録した。製作年代は1800~1804年と推定されている。20里方眼の上に描かれたことは『東国地図3』と似ているが、郡県の大きさにより方眼の大きさが違う。25.0cm×17.0cmの大きさの本のワク内に4個の方眼を描いた場合は約4.3cm、5個の場合は3.5cm、6個の場合は2.7cm、7個の場合は2.2cmの正方形の方眼だ。 またこの地図冊では、1つの面に1個の郡県から最大8個の郡県まで一緒に収録され、一部の郡県は互いに連結されて描かれている。この地図冊には『東国地図3』と同じように、経緯線の数値が記載されている。『東国地図3』では、邑治に最も近い交差部分にだけ記載されているのに対し、『海東輿地図』では『東国地図3』と同じ数値を記載し、続く方眼に経緯線の下の場所だけに記入した。慶尚道の場合、31×21個の方眼に郡県の位置だけ表示している。慶尚道で郡県が描かれた範囲は、北―南に83(順スンフン)-119(コジェ)、東―西に18(チャンギ)-42(ハミャンであり、これは『東国地図3』の範囲と同一である。一方、道別「八道分表」を収録して各図で郡県の位置が分かるようにした。この内容は『青丘図』の一部異本に収録された『八道分表』の方眼数値と一致していて注目される。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-55407944990400756872010-11-19T01:06:28.375+09:002010-11-19T01:06:28.375+09:00(2)方眼図法で描かれた古地図
方眼図法に描かれて残っている古地図は、大きく郡県地図と大縮尺の朝鮮...(2)方眼図法で描かれた古地図<br /><br />方眼図法に描かれて残っている古地図は、大きく郡県地図と大縮尺の朝鮮全図に区分される。これらの地図は、全国が同じ縮尺をもとに描かれており、収録地名などを見る時、絵画式技法で描かれた他の郡県地図とは異なり、『大東輿地図』など大縮尺全図の製作の土台になったことが明らかになっている。(金基赫(キム・ギヒョク)2005) 一方、道別図として方眼図法をもとに描かれた地図は何点があるが、方眼が地図の上に描かれた地図はまだ発見されていない。<br /><br />①郡県地図<br />(a)郡県地図と方眼図法<br />朝鮮後期に製作された郡県地図中、方眼が描写された最も初期の地図は、奎章閣に所蔵された『嶺南地図』(奎12154他)である。道別に構成された郡県地図冊で、表紙に備辺司印がつけられていて『備辺司印地図』と紹介されている(楊普景(ヤン・ボギョン)、1992)。この地図には1里間隔の方眼(一部の地図は10里方眼)が描かれている。しかし郡県ごとに縮尺が同一でないだけでなく、隣の郡県と連結されないでいる。 この地図での方眼は、全国を統合する座標体系ではなく、郡県内で各地点間の距離を簡単に測定するための道具として描かれたものと見られる。<br /><br />(表6-1)は、郡県地図中、方眼図法によって製作された主要な郡県地図である。 <br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />[表6-1] 方眼図法で描かれた郡県地図冊<br />所蔵機関 地図名 請求記号 内容および備考<br />1国立中央図書館『東国地図三』継承貴2702-22 1冊(慶尚道)<br />2国立中央図書館『海東輿地図』古2107-36 3冊(乾・坤・補)<br />3奎章閣『朝鮮地図』奎16030 7冊(全羅道欠本)<br />4奎章閣『八道郡県地図』古4709-111 3冊(京畿道・忠清道・平安道)<br />5国立中央図書館『八道地図』古朝61-21 6冊(八道)<br />6蔵書閣『地図』K2-4583 4冊(八道)<br />7高麗大図書館『輿地図』B-10 A-53 2冊(京畿道・忠清道・江原道・咸鏡道)<br />8高麗大図書館『地図』B-10 A-52 4冊(八道)<br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-74715991267569329452010-11-19T01:05:28.160+09:002010-11-19T01:05:28.160+09:00『韓国地図学発達史』にある、金基赫の論文です。
http://www.land.go.kr/info...『韓国地図学発達史』にある、金基赫の論文です。<br />http://www.land.go.kr/info0303.do<br /><br />第6章 朝鮮後期の地図<br />http://www.land.go.kr/document/info/cartology/cartology_06_34.pdf<br /><br />2)我が国の古地図と方眼<br />(1)我が国の方眼図法<br />129p line5<br />18世紀の地理学者、申景濬の『旅菴遺稿』には、方眼式地図と関連して次のような記録が収録されている。<br />“庚寅年(1770年、英祖46)に王が『東国文献備考』を編纂させた。私もそれに参加した。また私に『東国地図』を描くように命じたので、公府に所蔵されている10件余り[地図]を取り出し、諸家の古本を訪ねて考察してみると、玄老[鄭恒齢]が描いたものに匹敵するものがなかった。 これを採択して若干校正を加えた。6月6日に開始し、8月14日に仕事を終えて王に捧げた。列邑図8巻、八道図1巻、全国図の掛け軸1軸である。周尺2寸を1線として、縦線76個、横線131個であった。王はまた命じて同じ数を東宮に捧げるようにした。王が親しく小序を作った… (旅菴遺稿、巻之五,東国輿地図跋)。<br /><br />地図があれば大概序文がなければならないことが慣例だ。 この地図は、初めに備考・通考に共に載せようと思ったが、そういう事例はないという理由で、色々議論があり、名前を『輿地図』とつけた。京都・両都から八道に至るまで、道里・山川を全部整えた。この編集はまさに私、申景濬が全面的に担当して成し遂げられた。360州の大小と遠近を一度に展開して、あたかも指掌を指すようだ。”(旅菴遺稿、巻之十三,御製輿地図小叙)<br /><br />申景濬が英祖の命を受けて周尺2寸を1線とする方眼式の郡県地図を製作して捧げ、地図を『輿地図』と名付けたという内容である。この記録は、方眼図法に関し、我が国の地図製作技法の枠組みを次の通り見せている。周尺を利用して従線76個、横線131個を引いたことは、我が国全国を統合する経緯線の組織を完成したという意味だ 同時に、全国すべての地域が、周尺2寸の方形格子をもとに、同じ縮尺によって地図製作が試みられたことを意味する。もちろん、以前に製作された鄭尚驥の『東国地図』の道別図も、百里尺を利用して製作されたが、それよりもはるかに詳しい地図が製作されたのだ。また、360州の大小と遠近を見ることができるように描いたし、列邑図8冊、八道図1冊、全国図が同時に描かれたことにより、同じ体系によって各郡県の地図(列邑図)、道別地図と朝鮮総合図が製作されたことがわかる。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-85055841306982156102010-11-19T00:57:02.025+09:002010-11-19T00:57:02.025+09:00奎章閣所蔵の『朝鮮地図』(奎16030)について、2005年12月に奎章閣から影印本が出ていますが、...奎章閣所蔵の『朝鮮地図』(奎16030)について、2005年12月に奎章閣から影印本が出ていますが、この本の解説で、李起鳳(ソウル大学校奎章閣 責任研究員)は、この『朝鮮地図』は、1770年(英祖46年)に、国王である英祖の命令により、申景濬の主導下に製作された地図(『列邑図』8巻)である、と断定しています。<br /><br />この地図です。<br />http://farm3.static.flickr.com/2108/1825468597_cc82dbf8b6_o.jpg<br /><br />とすると、申景濬は、同じ1770年に、『東国文献備考』には<br />「輿地志云、鬱陵于山皆于山國地。于山則倭所謂松島也。」<br /><br />と書いていたわけですから、この『東国文献備考』の「于山」は、この『朝鮮地図』に出てくる、この位置にある「于山」であって、これがすなわち倭の所謂松島、つまり今の竹島=独島である、と申景濬自身が認識していたことになります。<br /><br />はたしてこの地図にあらわされた「于山」は、竹島=独島と言えるのでしょうか?<br /><br />むしろ、誤った位置情報をもち、2つの岩とは認識しておらず、「倭の所謂松島について、申景濬はまったく現実の姿を知らなかった」、ということをあらわしているのではないでしょうか。<br /><br />この地図は、王命による編纂ですから、当時の朝鮮王朝の認識そのもの、と言えます。<br /><br /><br />さらに、この『朝鮮地図』の「于山」の認識は、国立中央図書館蔵『八道全図』古朝61-21 <br />=Gerryさん紹介の「關東方輿)」<br /><br />http://www.dlibrary.go.kr/Map/main.jsp?code=KOL000021173<br />の(2)關東方輿)の(29)欝陵島<br /><br />http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2009/05/1880s-1890s-gwandong-pangyeo-ulleungdo.html<br /><br /><br />さらには、高麗大学図書館蔵の『地図』<br />http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/06/1888-1895-map-of-ulleungdo.html<br /><br />そして吳宖默の『輿載撮要』にも引き継がれているわけで、<br />朝鮮王朝側では、ずっと竹島=独島の位置を誤って認識しつづけていた、ということになると思います。<br /><br />『東国文献備考』の記述は、独島=于山島説の一番の拠り所と言って良いものですから、申景濬自身の認識がこの地図の「于山」の通りだとすると、独島=于山島説はこれで崩れるのではないか、と思います。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-60183203464887323432010-11-14T23:47:14.150+09:002010-11-14T23:47:14.150+09:00[インタビュー] ペ・ソンギ旌善文化院長
「政事は勤勉なところに成り立ち、威厳は清廉なところに出てく...[インタビュー] ペ・ソンギ旌善文化院長<br />「政事は勤勉なところに成り立ち、威厳は清廉なところに出てくる」旌善は、先史時代から南漢江上流を中心に交わった天恵の自然環境を持った白頭山脈峻嶺の山間拠点地域で、地理的に交通が不便で経済的に豊かな所ではなかったが、風土は素朴で人情が厚い所だ。<br /> 「旌善叢瑣錄」は、菜園・吳宖默が旌善郡守であった時に、日記形式で記録しておいたものだ。地方守令としては珍しく、在職当時の記録を豊富に残していて当時の生活像を理解するのに多くの役に立っている。その内容は天気、事件、人物、書信、史跡、詩文などの内容と赴任当時の手続きと赴任途中の民衆の生活を見せる興味ある話、地域を治めることの全般に至るまで、その過程と実状が生き生きと記録されている。<br /> 菜園・吳宖默郡守が宮殿で官吏生活をして高宗の招請を受けて旌善郡の守令として赴任した時は、116年前の1887年の春だ。茶山・丁若鏞先生が「牧民心書」で特に地方官の守令が守らなければならない「守令七事」に言及した如く、吳宖默郡守はこれを守ろうと不断に努力した。<br /> 吳宖默郡守が徹底して「守令七事」を守る間、郡民の人生は良くなったし、不満だった軍役に関する問題も解消された。装飾品やお金をなくしても持っていく人がなく、その場にそのまま主人が探しにくる時まであった。<br /> 詩会を開いて近隣の学生たちを広く呼び入れて才能を広げるようにしたし、村の中の郷校と私学を頻繁に訪れて学生たちを励まして特講もした。朝早く村を回って、畑に出て行って仕事をすることを奨励し、熱心に仕事をする住民には私費をはたいて励ました。民衆の訴訟は常に本当の方にたち、簡潔に処決したので争いの素地をなくした。還子穀の弊害を正して巡営から減免を受けて住民のしわになった顔がのびるようにしたし、金鉱の不正な事案を解決するために直接現地を訪ねて行って堂々と是正した。<br /> このようだから、旌善郡民は吳宖默郡守を前任守令とは違って厚い信義で対することになった。ある日、国民は繍傘(村の住民たちが守令の治績に感服して名前を刻んだ千の布を構成して作った傘)を心を込めて作り、自分たちの心を美しく入れて郡守に捧げた。郡守は遠慮しながら、ついに受け入れた。王朝時代の牧民官としての最高の栄誉を….<br /> キム・キソプkees26@kado.net<br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />なんだかキム・ジョンイルの「視察」みたいで、やや気持ちの悪い誇張があるようですが、別の研究によると、郡守としての治績の成績は常に「上」で好成績だったようです。<br />いずれにしても、朝鮮末期の開明派の官僚=知識人の一人だったのではないかと思います。『輿載撮要』には、こういった層の人の、「于山」(=独島?)認識が、そのままにあらわれているのだと思います。すなわち、ここに現われている「于山」が、はたして「独島」でありえたか、といえば、この地図上の位置にしても、本文の「于山は三陟の東にあり」というだけの記述にしても、そこからはまったく現在の竹島=独島についての正確な認識は持ちえていないことがわかります。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-14628539383568740552010-11-14T23:46:40.988+09:002010-11-14T23:46:40.988+09:00 このような過程を収録した日記は、村の地理誌やその他の資料に現れた断片的な数値や記録よりも躍動感があ... このような過程を収録した日記は、村の地理誌やその他の資料に現れた断片的な数値や記録よりも躍動感があって詳しく現れていて、旌善の社会像と生活像を実質的に把握することができる。日記に現れた通り、旌善は地理的に山で囲まれていて畑とは殆どなかったし、郡民は誇張された表現だが「ジャガイモだけを食べて暮らす」かなり難しい生活をしたことを察することができる。<br /> しかし吳宖默郡守は地方守令として在任する間、困窮する生活をした旌善郡民らから繍傘を受けるなど自ら政治功績を残している。吳宖默郡守は各邑面に通いながら、私費をはたいて準備した扇と針、タバコを分ける愛民意識を持って郡民に対した。赴任当初には「朝出て行って夕方に帰ってくる農民の本務」を守らない農民たちがいたが、朝早く家ごとに通って勤勉誠実を呼び覚まして農作業を薦めた結果、10日余りが過ぎた後には怠ける農民が全く見られないなど生活改革にも先に立った。<br /> 『旌善叢瑣錄』に記載された日記の一場面を見れば「勧農するために農民が仕事をする畑に出て行って、葉タバコを二~三~四つかみずつと、針4~5個ずつを男女に各々分けてやったり、年齢の幼い者にはお金を時に3分あるいは4分ずつ分けてやった後、タバコを吸う人はタバコを吸っていて私がいても気兼ねするなと頼んだ。農民にご飯をねだって味噌とナムルだけの昼食を食べたり、草取り鎌を直接持って草取りをして畑畝を結んだ」と書いている。吳宖默郡守が住民の実生活の中に食い込む行政を行なうために非常に努めた跡をのぞくことができる。当時の守令としては破格的な活動だったのだ。<br /> 吳宖默郡守のこのような善政に、旌善郡民は難しい生活の中でも二匁の銀三塊をなくしても直ちに探せたし、穀物二枡とお金五銭をわざわざ垣根の間に放置しても盗み出さない美しい風俗を維持することができた。<br /> 旌善郡民は郡守の治績に対する恩返しとして、当時守令として最も大きい光栄だった「繍傘」を作って捧げるなど郡守に対する称賛がやまなかった。朝廷で吳宖默郡守を慈仁県監に発令状を出した時も、旌善郡守の任期を延ばしてくれと上訴までするなど、郡民から信義を一体に受けた。ついに上訴が受け入れられず、残念な思いをした中で、以後慈仁県監、咸安郡守、固城府使、麗水郡守など地方守令で活動しながら、赴任する所ごとに「繍傘」を受けるなど、官職から退く時まで地方守令として任務を忠実に遂行した。しかし、高宗が直接彼を抜擢して起用するほど中央政界とも深い関係を結んでいたし、多様な官員履歴にもかかわらず、彼の生涯についての詳しい内容を明らかにする資料は特に残っていない。ただ『旌善叢瑣錄』と共に、旌善郡東面画岩里モルン台岩に「郡守吳宖默」と彫刻された文字と、旌善郡北面余糧里余糧鎮にたてた善政碑だけが伝えられている。<br /> 旌善文化院院長ペ・ソンギは昨年『国訳旌善叢瑣錄』を発刊し、吳宖默の生涯など詳しい内容を把握するために海州呉氏宗親会などを探して資料を発掘するなど、歴史の中の人物「旌善郡守・吳宖默」を研究している。来年には旌善だけでなく他の地域で守令として在職しながら残した各種の叢瑣錄を全部収集して吳宖默郡守の面目を探求し、専門家を招請して「旌善叢瑣錄学術発表会」を開催する計画だ。(つづく)Anonymousnoreply@blogger.com