tag:blogger.com,1999:blog-26948035.post7004312152003030081..comments2024-01-26T17:48:29.804+09:00Comments on Dokdo-or-Takeshima?: Samcheok Museum Map dated 1884 - 1888?Gerry Bevershttp://www.blogger.com/profile/14311939520870098017noreply@blogger.comBlogger59125tag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-37053815079179731172010-12-08T23:46:08.755+09:002010-12-08T23:46:08.755+09:00matsuさん、
>いずれにしても、この石宙明「鬱陵島の沿革」に、この段階で「獨島」がまったく出て...matsuさん、<br /><br />>いずれにしても、この石宙明「鬱陵島の沿革」に、この段階で「獨島」がまったく出て来ていないことは重要だと思います。書こうとしても、材料がなかったのでしょう。<br /><br /> そういうことですよね。当時得られていた知見を総合してもそういう結果になるのが当たり前だったというわけですね。<br /><br /> 「市内」と「全貌」はそのようです。ありがとうございました。<br /><br /><br /> エラーメッセージは私だけでもないんですね。少し安心した。(安心してもどうもならないけど。)<br /><br /><br /><br />2010.12.08Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-4488920231975343332010-12-08T11:41:00.356+09:002010-12-08T11:41:00.356+09:00(続き)
(5)東国地図の価値と意義
(1)百里尺の使用
百里尺は、『東国地図』の写本ごとに多...(続き)<br /><br />(5)東国地図の価値と意義<br /><br />(1)百里尺の使用<br /><br />百里尺は、『東国地図』の写本ごとに多少の差はあるが、概略9.4~9.8cmの長さになっている。この長さが百里に該当するということだ。棒形に描かれた一種の梯尺で、東洋と西洋を問わず探してみるのが難しい事例だ。中国では早く縦横の格子網の方罫を利用して地図を製作したが、百里尺と同じ梯尺の形態は見られない。我が国でも17世紀に方罫を利用した地図製作が行われた。しかし方罫の場合、方向と距離を正確に表現する効果はあるが、地図がかえって煩雑になる欠点もあった。また、道路のような曲線になった距離を測定するのが容易でない。したがって鄭尚驥はこういう欠点を補完するために、彼の独創的な思考で百里尺を考案したと見られる。百里尺は、現代のBar Scaleとも似ていて、これを利用すれば各地点間の直線距離を簡単に測定することができる。<br /><br />(2)国土の原形確立<br /><br />鄭尚驥の『東国地図』以前の地図は、大部分、北部地方の輪郭が歪曲されていた。朝鮮前期、鄭陟・梁誠之などの学者によって製作された地図は、南部地方は比較的原形に近く描かれたが、北部地方は豆満江と鴨緑江の流路がほとんど水平に描かれたし、面積も実際より小さく描かれて、歪曲が激しかった。これは咸鏡道、平安道が辺境であり、これに対する情報が不足したところにも起因する。しかし18世紀に入ると、清国の侵入に対する国防の強化、清国との国境紛争、平安道・咸鏡道地域の開発のような要因で、北部地方に対する関心が増大した。これにより、この地域に対する情報の収集と地図の製作も活発に進行された。鄭尚驥の地図は、このような社会的背景から出てきたものだ。彼は以前の地理誌、地図をはじめとして、この時期に刊行された村の地理誌、関防地図などを収合して、歪曲された北部地方の輪郭を正すことができた。朝鮮時代の地図の決定版といえる金正浩の『大東輿地図(1861年)』より、何と100年以上前に、私たちの国土の形態を実際に近く描き出したのだ。<br /><br />(3)大縮尺全図の嚆矢<br /><br />朝鮮時代に製作された大部分の地図では縮尺の表示がない。したがって現代の地図のような縮尺を算定することは容易ではない。しかし鄭尚驥の『東国地図』は、百里尺という縮尺を使ったので縮尺を算定できる代表的な地図だ。大部分の百里尺が9.4~9.8cmであり、10里を5kmと捉えた時、縮尺は概略1:51万~53万程度だ。<br />『東国地図』以前の地図の中にも大縮尺に該当するものはあったが、これらの地図は我が国の全図ではなく、特定の地域を描いた地域図が大部分だ。当時普及していた地図は、全図の場合、これよりはるかに小さい縮尺で製作されたものだった。道別図も『東国輿地勝覧』に載っている地図のように小縮尺の疏略な地図であった。<br /><br />(4)多様な情報の収録<br /><br />当時では大縮尺に該当する鄭尚驥の『東国地図』は、実際に近い国土の輪郭描写を土台に、山系と水路の表現が明確な体系を整えている。ここには山名、河川名、峠名などが詳細に収録された。全国のすべての郡県が表示され、これらの村をつなぐ交通路も詳しく描かれており、陸路とともに海路もよく描いている。また駅堡、山城、烽燧のような軍事的な内容が重点的に表示され、有名な浦口や村、寺刹、古邑、堤堰、渡し場など、以前の地図とは比較することができない多様な情報が収録されている。<br /><br />(5)民官地図製作の基本図<br /><br />1757年、朝廷に知られることになった鄭尚驥の『東国地図』は、以後、官庁で積極的に活用されることになる。その代表的な事例は、1770年、申景濬の『輿地図』の製作事業だ。彼は英祖の命を受けて『東国文献備考』の相棒になることができる地図を作ることになるが、この時、基本図に使われたのが、鄭尚驥の『東国地図』であった。これをもとに、彼は道別図、郡県地図などを製作した。このように製作された地図は、以後も官でずっと転写しながら利用された。<br />民間でも、鄭尚驥の『東国地図』は、多くの人々によって地図製作に利用された。 <br />特に海州鄭氏一族の鄭喆祚、鄭厚祚兄弟は、鄭尚驥の地図をもとに修正・編集して、さらに優れた海州本を製作することになった。<br />また、以後に製作される全図は、鄭尚驥の大全図をもとに縮小したものであり、道里図表が収録された全図『海左全図』などが代表的だ。 <br />李瀷、丁若鏞のような大学者たちも、鄭尚驥の地図の写本を所蔵し、これをもとに彼らの地理知識をより一層広げることができたのである。<br /><br />(6) 以後の地図の発達を主導<br /><br />鄭尚驥の『東国地図』は、彼の子孫である鄭恒齢、鄭元霖、鄭遂栄などによって転写・修正されながら広く波及し、鄭喆祚、鄭厚祚、申景濬、黄胤錫のような学者によって一層発展された。 方罫を使った郡県地図、小型の全図がずっと製作され、このような流れは金正浩の地図につながることになる。1834年、金正浩の『青邱図』は、まさに鄭尚驥の地図に根元を置いていると見ることができる。朝鮮時代の地図学の金字塔といえる1861年金正浩の『大東輿地図』は、『青邱図』をもとに補完発展させたものであるが、これまたその根元を遡れば鄭尚驥の『東国地図』につながる。さらに旧韓末に政府によって製作された全図や道地図が、大部分、鄭尚驥の地図を基礎にしているのを見る時、『東国地図』が朝鮮後期の地図製作に及ぼした影響は多大なものであった。 呉尚學<br /><br />参考文献<br /><br />呉尚學、1994「鄭尚驥の『東国地図』に関する研究-製作過程と写本の系譜を中心に-」ソウル大学校修士学位論文<br /><br />_______、2005『過去の人生の場所の姿 古地図』国立中央博物館<br /><br />国立地理院・大韓地理学会、2000『韓国の地図-過去・現在・未来-』<br /><br />ソウル大学校奎章閣韓国学研究院、2006『鄭尚驥の東国地図-原本系統の筆写本-』<br /><br />ソウル大学校奎章閣韓国学研究院、2007『朝鮮後期大縮尺朝鮮分図‐鄭尚驥の『東国地図』修正本系統-』<br /><br />李起鳳2008「鄭尚驥の『東国地図』修正本系列の製作過程に対する研究」文化歴史地理、20(1),56-88.<br /><br />李祐炯・呉尚學、2004「国立中央博物館所蔵『朝鮮地図』の地図史的意義」文化歴史地理、16(1),165-181.<br /><br />李燦、1991,『韓国の古地図』汎友社.<br /><br />-----------------------------------<br />(以上、matsuさんの翻訳でした)Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-698320496601765802010-12-08T11:39:10.354+09:002010-12-08T11:39:10.354+09:00(続き)
④ 初期修正本の変形系列
修正本系列に分類できる写本の中で、また他の類型として初期修正...(続き)<br /><br />④ 初期修正本の変形系列<br /><br />修正本系列に分類できる写本の中で、また他の類型として初期修正本が変形された系列の地図があげられる。奎章閣所蔵の『八路総図』(古枚912.51-P186)(図6-58)と『東域図』(古4709-27)が代表的だ。二つの地図は、鄭尚驥の大全図と八道分図の形式を取っており、『東域図』の各道別図を合わせれば『八路総図』となる。収録された地名から見て、『八路総図』は1758年から1767年の間に推定され、『東域図』は19世紀初期と推定される。<br /><br />『東域図』は、鄭尚驥の原図を大幅に修正した修正本系列の写本であるが、構成・体裁は原図系列に従っている。すなわち、京畿・忠清道を1図面に描き、咸鏡道は南道と北道に分けて描いており、修正本系列の写本とは違う。これは、この地図が鄭尚驥の原本系列に土台を置いて製作されたことを強く暗示しているが、この地図の部分的な輪郭がこれを後押ししている。この地図の済州島の部分には、旌義(チョンウィ)県の西側の地域が湾ではなく湖の形態で間違って表現されているが、これは鄭尚驥の原図系列の写本でよく見る誤りである。これは『東域図』の大全図である『八路総図』でもそのまま見えている。<br /><br /> [図6-58] 『八路総図』の平安道の部分 資料:奎章閣<br /><br />『八路総図』は、初期修正本とほぼ同じ時期に製作されたと推定されるが、これらの修正本と同じように、原図系列の写本に見える誤りを是正している。輪郭と表現内容も概略的に初期修正本と一致していて、同じ系列の地図であることを知ることが出来る。しかし『八路総図』では、島々を含んでいる海岸地域の輪郭が非常に詳しくなっているし、初期修正本とは比較にならないほど多くの島々が描かれていたことから見て、初期修正本を補完した地図と評価される。<br /><br />(続く)Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-4691580274306783052010-12-08T11:37:47.269+09:002010-12-08T11:37:47.269+09:00(続き)
③ 申景濬の『輿地図』系列
『東国文献備考』輿地考の編纂を担当した申景濬は、1770年...(続き)<br /><br />③ 申景濬の『輿地図』系列<br /><br />『東国文献備考』輿地考の編纂を担当した申景濬は、1770年『輿地図』の製作の命令を受けてこれを実行することになる。 次は『輿地図』の製作に関連した記録だ。<br /><br />「また、臣に命じて『東国地図』を作るようにした。この時、機関に所蔵された10件を取り出し、色々な家を訪問したが、古本で玄老(鄭恒齢)が描いたものに匹敵するものがなかった。ついにそれを使って校正を加えた。6月6日に始めて8月14日に終えて進上した。 列邑図8冊、八道図1冊、全国図の掛け軸1個であるが、周尺二寸を一線にして、縦線76個、横線131個であった。」9)<br />9)申景濬、『旅菴遺稿』、巻五,跋、東国輿地図跋.<br /><br />訳注:申景濬(シン・キョンジュン)(1712~1781) 号は旅菴<br /><br />上の記録で知ることが出来るように、申景濬は『東国文献備考』「輿地考」の編纂を遂行しながら、国家的事業で地図を製作することになったが、全図と道別図、郡県地図を一つのセットで製作した。申景濬の『輿地図』製作には、鄭恒齢が描いた地図が底本に使われたが、これは鄭尚驥の『東国地図』写本のことだ。すなわち、鄭尚驥の『東国地図』は、息子の鄭恒齢によってまた転写・製作され補完されたが、鄭恒齢と懇意にしていた申景濬がこの地図を『輿地図』製作の底本として活用したのだ。<br /><br />『輿地図』は、我が国の国土を20里方眼を使って東西に76個、南北に131個の線を引いて作ったものだ。奎章閣に所蔵されている『朝鮮地図』『八道郡県地図』などの20里方眼の郡県地図は、この時製作された列邑図の写本と推定される。 <br />これらの地図は、4.2cmの方眼に描かれているので、周尺1尺を20.5cmとして捉えても、ほぼ2寸に該当する数値だ。これらを全部合わせれば横315cm、縦546cmの大型全図となる。鄭尚驥の『東国地図』大全図の二倍に該当する大きさだ。<br /><br />申景濬の『輿地図』の八道図写本と推定される地図が、現在、慶煕大学校惠靜博物館に所蔵されている(図6-57)。八道の地図の中で、京畿道、咸鏡道、江原道の地図が残っているが、列邑図の写本と推定される奎章閣所蔵『朝鮮地図』と、その形態と内容がほとんど一致している。『朝鮮地図』では、邑治を単純化させて円で表現しているが、惠靜博物館所蔵の道別図では、邑治の客舎、衙舎などの官衙の建物を描いて表現した点が違う程度だ。<br /><br />[図6-57]申景濬の『輿地図』系列写本の江原道の部分 資料:慶煕大惠靜博物館<br /><br />『輿地図』系列の写本を、鄭尚驥の『東国地図』原図系列と比較すると、大きな差を把握することができる。まず規格面では『輿地図』系列の写本がはるかに大きいから、収録している地理情報の量も多くなる。さらに山系と水路の表現が一層詳しく精巧になったことが分かる。海岸の島々も詳細に描いている。このようなことから見て、申景濬の『輿地図』は、鄭尚驥の『東国地図』の写本を底本に活用し、村の姿が詳細に描写された既存の絵画式の郡県地図と、邑誌のような地理誌を参考資料としたと見られる。道別地図に描かれた邑治の姿が、絵画式郡県地図に見える姿と似ていることは、このような可能性を一層高めてくれる。<br /><br />申景濬の『輿地図』系列の写本は奎章閣にも所蔵されている。屏風に製作された『朝鮮八道地図』(古屏912.51 J773)だ。10)<br /><br />10)筆者が1994年、修士学位論文を作成する当時、この地図については原本閲覧が不可能だったし、マイクロフィルムも製作されておらず、修士学位論文では分析対象から除外された。最近、奎章閣で影印刊行され、本稿で扱うことができた<br />(ソウル大学校 奎章閣韓国学研究院、2007『朝鮮後期大縮尺朝鮮分図‐鄭尚驥の『東国地図』修正本系統-』参照))<br /><br />この地図は6幅の屏風(1幅163×65cm)にされているので、各地図を繋げて合わせれば、縦で5mにもなる大型の全図となる(李起鳳、2008)。惠靜博物館所蔵の『輿地図』系列の写本と似た大きさだ。 二つの地図を比較してみれば、全体的な輪郭と水系網がほとんど一致していて、同じ系列の写本であることがわかる。しかし、山の連なりの表現が相異なって、一部の地名に違いがあるのを見れば、直接的な模写関係ではなく、若干の補完・修正が加えられたことがわかる。表現形式から見て『朝鮮八道地図』のほうが後代の写本と判断される。<br /><br />『輿地図』系列の写本は、他の修正本系列より地図学史上に占める意義がより一層大きい。 何より、鄭尚驥の原図を大幅に拡大して大縮尺の地図を作ったという点で、その他の修正本系列と差別化される。このような大縮尺の道別図は20里方眼に基づいた郡県地図の製作につながり、これらは19世紀の大縮尺全図の先駆的役割をしたという点で、重要な意味があると評価できる。11)<br /><br />11)申景濬の『輿地図』製作で、郡県地図を先に作って、それをもとに全図や道別図を作ったと見る見解があるが(李起鳳、2008 75)、これは、伝統時代の地図製作の方法を間違って理解したことから出てきたものと考えられる。絵画式の郡県地図や、邑の地理誌などの資料を活用して、同じ縮尺の方眼式の郡県地図を製作し、これを結合して道地図や全図を作ったという上向式方式を主張したのであるが、縮尺が各々違う絵画式の郡県地図を使って、同じ縮尺の郡県地図に変換するのは、現実的には容易ではない。また、となりの村の連結関係を把握するためには、郡県より大きい範疇の地図がなくてはほとんど不可能だ。したがって、申景濬は鄭尚驥の八道分図の写本を基本図にして、これを大幅に拡大修正した道別図を先に作った後、この道別図を連結して全図を作り、ここに縦に線76、横に線131個をひいて方眼座標をひいた。これをもとにして、郡県の境界線について個別郡県の地図を模写し、郡県地図冊に作ったと見なければならないだろう。<br />惠靜博物館の『輿地図』系列の八道図の写本には邑治の官庁の姿が描かれており、一方で、郡県地図冊である奎章閣の『朝鮮地図』には、邑治が官衙の建物がない形態で簡略に処理されている点も、道別図から郡県地図に行く下向式方式の証拠と見ることができる。<br /><br />(続く)Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-30165212922288909932010-12-08T11:36:26.977+09:002010-12-08T11:36:26.977+09:00(続き)
(2) 『東国地図』修正本の系列
① 初期修正本の系列
修正本系列の写本の表現上の特...(続き)<br /><br />(2) 『東国地図』修正本の系列<br /><br />① 初期修正本の系列<br /><br />修正本系列の写本の表現上の特徴で最も目立つのは、韓半島の輪郭が原図系列の写本とは違う姿を帯びているという点だ。原本系列の写本は『東国地図』の原図をそのまま模写して、地名のような一部の変化した事項だけ修正する場合が大部分だが、修正本系列の写本では、原図の形式から抜け出して、国土の輪郭に相当部分の修正が加えられた。これらの代表的なものは、奎章閣所蔵の『八道分図(古915.1-P173)』と『左海分図(古4709-14)』、湖巌美術館所蔵の『海東図』(図6-55)等だ。<br /><br />これらは、1767年以前に製作された、比較的初期に属する写本であるが、地図帖の構成でも原図の形式を脱離している。すなわち、鄭尚驥の原図は、京畿・忠清道を合わせて一枚の図面に、そして咸鏡北道(訳注:咸鏡道か)を南道と北道に分離して各々一枚の地図に作ったが、これとは違って『八道分図』と『左海分図』では、各々八道別に地図を一枚ずつ描いた。それと共に、これらの写本には百里尺と跋文が収録されていない。<br /><br /> [図6-55]初期修正本系列の写本『海東図』の京畿道部分 資料:湖巌美術館<br /><br />初期修正本系列の写本と、原図系列の写本を比較してみれば、表現している国土の輪郭で相当な差を見せている。 まず最初に眼に触れる差は、今日の中江鎭(チュンカンジン)から満浦(マンポ)につながる鴨緑江の流路の部分に現れる。鄭尚驥の原図系列の写本では、この鴨緑江の流路部分が多少緩やかに現れるのに反して、修正本系列では我が国側に湾入された形態を持っている。<br /><br />これ以外に、南海岸でも輪郭の差が著しく現れている。南海岸の高興半島と麗水半島、これら周辺の島嶼地方を表現するにあたって差を見せているが、初期修正本は鄭尚驥の原図に見える誤りを是正している。鄭尚驥の原図系列の写本では、白也串を島に表現しているが、初期はもちろん後代の写本でもこれを修正しないでそのまま転写している。しかし初期修正本系列の写本はこのような誤りを是正し、また、済州島の旌義(チョンウィ)県の西側が湖に表現された原図系列の誤りも正した。<br /><br />初期修正本が表現している地理的事象は、以前の原図系列の写本とは比較することができないほど豊富になった。山川、峠のような自然的要素はもちろん、倉庫、山城、寺刹、郡県内の坊里、一部の面名、船着場、墓、亭子、碑石などのような原図系列の写本では見るのが難しい多様な人文的要素が収録されている。初期修正本系列の写本は、後代にも継続的に転写されながら明確な系譜を形成することになり、現在も色々な機関に所蔵されている。<br /><br />② 鄭厚祚の「海州新本」系列<br /><br />『東国地図』の修正本系列に属しながら、前の初期修正本系列とはまた違う系列の写本が今に伝えられており、誠信女子大博物館所蔵の『東国八路分地図』(図6-56)と、ソウル大奎章閣韓国学研究院所蔵の『朝鮮八道地図(古4709-54)』などがある。この地図も鄭尚驥の『東国地図』をそのまま転写しないで、修正・変形させたものであり、朝鮮後期の地図発達史で重要な位置を占める地図と評価される。<br />この系列の地図も、初期修正本のように鄭尚驥の原図に従わないで、構成・体裁や輪郭がだいぶ修正された。表現内容は、以前の初期修正本より非常に豊富である。特に、郡県内のすべての面の名称と、郡県の境界まで表示されたが、これは初期修正本で見られなかったことである。<br /><br />[図6-56] 鄭厚祚の海州新本系列の『東国八路分地図』の京畿道部分<br />資料:誠信女子大博物館<br /><br />この系列の地図で、『東国八路分地図』には、地図の表紙に「甲辰孟春」という年紀が表記され、また地図帖の後には凡例が収録されており、製作の時期と製作者を把握できる端緒を提供している。地図に収録された地名から見て「甲辰孟春」は、正祖8(1784)年に該当する。また、地図の末尾には「東国輿地図凡例」が収録されているので、本来の地図名称は「東国輿地図」だったことがわかる。凡例には、鄭恒齢家の地図を底本として別途の量地尺を作り、色々な村の地理誌で校正して製作したことを明らかにしている。本来の地図帖は、總圖1幅、八道分図8幅、嶺隘海防図1幅、四裔図1幅の都合11幅で構成されていたが、八道分図だけが残っている。 <br />この地図の製作者は、『四裔志』を著述した鄭厚祚と推定されるが、次の『八道地図』が決定的な端緒となる。<br /><br />訳注:四裔=国の四方の果て<br /><br />「海州鄭氏の佐郎・鄭厚祚は、判書・鄭運維の息子であるが、彼の兄である文官の鄭喆祚は暦法・西学そして文と絵に優れ、厚祚は中国、西域、青海、蒙古、盛京の地図などをより一層努力して窮究し、我が国についても一以貫之して、河東本によって修正を加え、ついにそれ以上の優れた地図を作り出した。」7)<br />7)黄胤錫、『八道地図(古4709-48)』、跋文.<br /><br />訳注:鄭厚祚(チョン・フジョ)(1758-1793)<br />鄭喆祚(チョン・チョルジョ)(1730~1781)<br />黃胤錫(ファン・ユンソク)(1729~1791)<br /><br />上記の文のように、黄胤錫は、鄭厚祚が中国、西域、青海、蒙古、盛京の地図を窮究したと指摘しているので、まさにこうしたものをもとに『四裔図』を製作した可能性が非常に高い。彼が窮究したのは、我が国の周辺国の四裔に関したことであるからだ。合わせて黄胤錫は、鄭厚祚が河東本である鄭尚驥の『東国地図』をもとに、新しく修正・製作した「海州新本」の製作事実を明確に明らかにしている。<br />このような記録は「東国輿地図凡例」の記述とも一致している。したがって『東国八路分地図』は、鄭厚祚の「海州新本」と推定される。8)<br /><br />8)『東国八路分地図』は、後に収録された凡例の内容と完全には一致しない。 凡例では、各道別図に道の沿革と、朝鮮時代に新しく創設されたり廃止された邑を記載したといっているが『東国八路分地図』にはこのような内容はない。これで見ると『東国八路分地図』は、原本の『東国輿地図』の八道分図だけを模写した写本と見ることもできる。<br /><br />『東国八路分地図』と同じ写本が残っており、ソウル大奎章閣韓国学研究院所蔵の『朝鮮八道地図』である。二つの地図を比較してみると、地図の内容や輪郭がほとんど一致している。ただ平安道と咸鏡道で差を見せているが、これは表現上の差でなく構成・体裁上の差だ。すなわち、『東国八路分地図』では平安道と咸鏡道を1つの図面に描いたが、『朝鮮八道地図』では平安道と咸鏡道の図面規格がとても大きいので、南道と北道に分けて描いたのだ。<br /><br />これら「海州新本」系列の地図は、以前の他の写本と違い、膨大な量の地理情報を収録しており、表現体系や方法もより一層精巧になったという点で、鄭尚驥の『東国地図』を一段階高めた地図と評価される。「海州新本」系列の写本が持つ特徴を整理すれば以下のようである。<br /><br />まず、山脈と河川で代表される自然的な要素の表現が、鄭尚驥の原図系列写本よりはるかに精巧になり、山脈と河川で10里を越えるものは、名称がなくても全部描き入れた。<br /><br />二番目、地図上に表現された人文的情報が飛躍的に増えた。鄭尚驥の原図系列写本は、せいぜい郡県名、海路を含んだ交通路、烽燧、山城、駅堡などの関防と関連した情報を表現するのに終わっているが、「海州新本」では、山の嶺●、烽燧、河の船着場、倉庫の名称、面の名称、●●などを合わせていて、特に郡県の坊里は全部表記した。<br /><br />三番目、鄭尚驥の原図系列写本では、ほとんど見られなかった各邑間の境界を表示した。また、豆満江・鴨緑江周辺の把守と黄海道沿海の把守を表示したし、邑治までの距離を注記した。<br /><br />訳注:把守=警戒して守る。また、その兵。番兵。<br /><br />四番目、凡例がより精巧になった。鄭尚驥の原図系列では、集落の階層を考慮しなかったが、ここではソウルは大きい黄色の円で表示し、巡営は紅色の四角形、兵営・水営・統営などは青色の四角形、その他の郡県は紅色の円で、駅は黄色の小さい四角形、鎮は青色の菱形等で区分し、階層をより明確に表現した。<br /><br />(続く)Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-88994527167729332842010-12-08T11:35:13.117+09:002010-12-08T11:35:13.117+09:00(『韓国地図学発達史』6鄭尚驥の東国大地図の続きです。)
(4)東国地図の写本の系譜
(1)『東...(『韓国地図学発達史』6鄭尚驥の東国大地図の続きです。)<br /><br />(4)東国地図の写本の系譜<br /><br />(1)『東国地図』原図の系列<br /><br />現存する『東国地図』の写本の中で最も多い分量を占める。原図の形式と体裁を維持しながら、一部の地名などが修正・補完された地図で、鄭尚驥の子孫によって転写されて広く流布した。修正本系列の写本とは違い、原図の韓半島の輪郭をそのまま維持している地図がこれに該当する。<br />先に言及したように、鄭尚驥の『東国地図』は、彼の息子の鄭恒齢、孫の鄭元霖、曾孫の鄭遂栄などの河東鄭氏一族によって継続して修正・補完され、朝鮮後期の八道分図の先導的位置を占めることになった。<br /><br />この過程で鄭恒齢の役割が重要だったが、彼は当代の地理学の大家の申景濬と安鼎福のような学者との交流を通して『東国地図』を新しく補完することができた。このような地図は、以後、申景濬の『輿地図』製作にあたり底本の地図として活用された。6)<br /><br />6)申景濬『旅菴遺稿』巻五 跋 東国輿地図跋<br /><br />現存する原本系列の写本は、鄭尚驥の『東国地図』をそのまま模写した形態を帯びているが、韓半島の輪郭をはじめとする全体的な表現形態はそのまま引き継いで、地名のように後代に変化した内容だけが修正されている。 <br /><br />この系列に属する写本は、京畿道と忠清道を一つの図面に合わせて描き(図6-54)、咸鏡道は南道と北道に分けてして描いた。また、大部分百里尺と地図跋文が転写してあり、初期の写本であるほどこのような傾向が強い。<br /><br />現存の写本を検討してみれば、海岸線の輪郭や鴨緑江、豆満江の流路は何十年後の写本でも変わることがない。 また、山脈や河川の表現体系も、大部分の写本で殆んど一致していて、郡県の位置や烽燧、駅堡等も大部分同一だ。ただ、変遷した地名と鴨緑江・豆満江の北側の地名が後代になって補完された程度だ。<br /><br /> [図6-54]原図系列の写本 京畿・忠清道部分 資料:ソウル歴史博物館<br /><br />(続く)Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-39593373215459724752010-12-08T00:47:47.426+09:002010-12-08T00:47:47.426+09:00最初の○○は「市内」だと思います。最初の○○は「市内」だと思います。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-7890936943279402892010-12-08T00:45:45.171+09:002010-12-08T00:45:45.171+09:00Chaamieyさん
またまた資料翻訳ありがとうございます。
鬱陵島報告展
http://blogs...Chaamieyさん<br />またまた資料翻訳ありがとうございます。<br />鬱陵島報告展<br />http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/53010860.html<br /><br />○○は、「全貌」ではないでしょうか。<br /><br />この展覧会はあくまで「鬱陵島」が主体であったことが面白いですね。そしてついでのように「独島」が出てくる。<br />鄭秉峻の論文に出てくる事実が、このようにひとつひとつ確認されていくのは大事なことだと思います。<br />鄭秉峻『解放後韓国の独島に対する認識と政策(1945-51)』<br />http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima01/kenkyukaijoukyou.data/3-12.pdf#search='%E9%9F%93%E5%9B%BD%E5%B1%B1%E5%B2%B3%E4%BC%9A<br />14ページ<br />次に朝鮮山岳会の鬱陵島学術調査報告展覧会が開催された。展覧会は1947年11月10日から18日までソウル東和百貨店4階ギャラリーで開催された。報道写真、動物・植物・鉱物・農林標本、石器時代以来の考古学・民俗学資料、医学班の調査結果等 鬱陵島・独島の調査結果が合わせて陳列された。50費用の3万ウォンは正音社の崔暎海から調査団の報告書原稿料を先払いで受け取りこれを使った。51展覧会において「鬱陵島の写真も良かったが、独島の写真は不思議なほど国民の注目を集めた。」おそらくソウル市内で独島の写真が公開展示されたのはこのときが始めてだったものと思われる。52洪鐘仁は展覧会の目的の一つが「無人の孤島として帰属が問題化するであろう独島の全貌」を表すことであったとしている。53展覧会開催の報に接した鬱陵島では特産物のするめと工芸品などを持って南面長洪成国、島奨学士徐好岩、島成人教育士、大邱時報の韓昌錫記者等4名が11月7日上京した。54鬱陵島がするめの産地であるという事実はこのときから知られるようになった。調査時副隊長であった洪鐘仁によれば、ソウル展覧会以後大邱・釜山においても展覧会を開催したということであるが55地方で開催された展覧会のニュースは正確に確認することが出来なかった。<br /><br />50 ≪독립신보≫□≪서울신문≫ 1947. 11. 5. <br />51 홍종인, 1978 上記引用文 166ページ <br />52 これらの写真の行方は現在不明である。これについては追加調査が必要である。 <br />53 ≪서울신문≫ 1947. 11. 15. <br />54 ≪大邱時報≫ 1947. 11. 8. <br />55 ≪한성일보≫ 1947. 9. 25. <br /><br />注53が、前回翻訳の、洪鐘仁「鬱陵島報告展を開いて」1947.11.15ですね<br />http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/52971264.html<br /><br />費用の3万ウォンは正音社の崔暎海から調査団の報告書原稿料を先払いで受け取りこれを使った。51<br /><br />とあり、ここに例の「正音社」(1946年の地図の出版社)が出てくるのが面白いですね。<br /><br />51 홍종인, 1978 上記引用文 166ページ <br />上記引用文とは、洪鐘仁「再び独島問題を考える」新東亜1978年11月号<br />26 홍종인, 1978 ≪신동아≫ 11월호 <br /><br />洪鐘仁という人が、「独島教」成立に当たって果たした役割も大きかったのではないでしょうか。<br /><br />「東和百貨店」は「旧三越」ですね。<br />http://www.arukikata.co.jp/news/staff_note/c214.html<br />ソウルを訪れた人なら誰でも1度は行くという繁華街明洞。その西南の端っこに古めかしいデパートが建っています。新世界百貨店の本店です。<br /> この建物、知る人ぞ知るのですが、戦前の日本統治時代に三越の京城(けいじょう)支店として建てられたものなのです。終戦後は韓国人経営の「東和百貨店」となり、1963年からは三星グループの傘下で名前を「新世界」と変えて現在に至っています。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-12790917671590812882010-12-08T00:43:49.914+09:002010-12-08T00:43:49.914+09:00コメントを投稿しようとすると必ず「このフォームの処理中にエラーが発生しました。もう一度試してください...コメントを投稿しようとすると必ず「このフォームの処理中にエラーが発生しました。もう一度試してください。」というエラー・メッセージが出まして、一度で投稿できることがありません。もう一度やれば投稿できる場合が多いですが。<br /><br /><br />私にも、全く同じことが起っています。2度目で、ほとんどの場合コメントが載ります。<br />いつ消えるかわからないのでこわいけど。<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br /><br />以下は、石宙明の記事についてのコメントの後半部分です。一回は投稿できたのに消えてしまっていました。<br /><br />同じ鄭秉峻論文の話をしていました。<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br /><br />それから、おっしゃるように、この文章は、「蝶博士」あるいは「動物学」専門である石宙明にとっては、畑違いの内容です。<br /><br />鄭秉峻『解放後韓国の独島に対する認識と政策(1945-51)』<br />http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima01/kenkyukaijoukyou.data/3-12.pdf#search='%E9%9F%93%E5%9B%BD%E5%B1%B1%E5%B2%B3%E4%BC%9A<br /><br />によると、<br />1947年の朝鮮山岳会の鬱陵島・独島調査隊は、8月28日にソウルに帰り着いており(11p)、こうした文章をそのあと数日で書いて9月2日の紙面に載せるのは大変そうです。<br />あるいは、この「鬱陵島の沿革」の原稿は、鬱陵島に行く前に書いておいてあり、掲載が9月2日になったのかもしれません。<br />一方で、石宙明は「鬱陵島の自然」という原稿を、9月9日づけでソウル新聞に掲載していますが(12p)、こちらは帰って来てから、現地報告を含めて書いたのかもしれません。<br /><br />いずれにしても、この石宙明「鬱陵島の沿革」に、この段階で「獨島」がまったく出て来ていないことは重要だと思います。書こうとしても、材料がなかったのでしょう。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-15557718862905423612010-12-08T00:37:16.367+09:002010-12-08T00:37:16.367+09:00Chaamieyさん
またまた資料翻訳ありがとうございます。
鬱陵島報告展
http://blogs...Chaamieyさん<br />またまた資料翻訳ありがとうございます。<br />鬱陵島報告展<br />http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/53010860.html<br /><br />○○は、「全貌」ではないでしょうか。<br /><br />この展覧会はあくまで「鬱陵島」が主体であったことが面白いですね。そしてついでのように「独島」が出てくる。<br />鄭秉峻の論文に出てくる事実が、このようにひとつひとつ確認されていくのは大事なことだと思います。<br /><br />鄭秉峻『解放後韓国の独島に対する認識と政策(1945-51)』<br />http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima01/kenkyukaijoukyou.data/3-12.pdf#search='%E9%9F%93%E5%9B%BD%E5%B1%B1%E5%B2%B3%E4%BC%9A<br />14ページ<br />次に朝鮮山岳会の鬱陵島学術調査報告展覧会が開催された。展覧会は1947年11月10日から18日までソウル東和百貨店4階ギャラリーで開催された。報道写真、動物・植物・鉱物・農林標本、石器時代以来の考古学・民俗学資料、医学班の調査結果等 鬱陵島・独島の調査結果が合わせて陳列された。50費用の3万ウォンは正音社の崔暎海から調査団の報告書原稿料を先払いで受け取りこれを使った。51展覧会において「鬱陵島の写真も良かったが、独島の写真は不思議なほど国民の注目を集めた。」おそらくソウル市内で独島の写真が公開展示されたのはこのときが始めてだったものと思われる。52洪鐘仁は展覧会の目的の一つが「無人の孤島として帰属が問題化するであろう独島の全貌」を表すことであったとしている。53展覧会開催の報に接した鬱陵島では特産物のするめと工芸品などを持って南面長洪成国、島奨学士徐好岩、島成人教育士、大邱時報の韓昌錫記者等4名が11月7日上京した。54鬱陵島がするめの産地であるという事実はこのときから知られるようになった。調査時副隊長であった洪鐘仁によれば、ソウル展覧会以後大邱・釜山においても展覧会を開催したということであるが55地方で開催された展覧会のニュースは正確に確認することが出来なかった。<br /><br />50 ≪독립신보≫□≪서울신문≫ 1947. 11. 5. <br />51 홍종인, 1978 上記引用文 166ページ <br />52 これらの写真の行方は現在不明である。これについては追加調査が必要である。 <br />53 ≪서울신문≫ 1947. 11. 15. <br />54 ≪大邱時報≫ 1947. 11. 8. <br />55 ≪한성일보≫ 1947. 9. 25. <br /><br />注53が、前回翻訳の、洪鐘仁「鬱陵島報告展を開いて」1947.11.15ですね<br />http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/52971264.html<br /><br />費用の3万ウォンは正音社の崔暎海から調査団の報告書原稿料を先払いで受け取りこれを使った。51<br /><br />とあり、ここに例の「正音社」(1946年の地図の出版社)が出てくるのが面白いですね。<br /><br />51 홍종인, 1978 上記引用文 166ページ <br />上記引用文とは、洪鐘仁「再び独島問題を考える」新東亜1978年11月号<br />26 홍종인, 1978 ≪신동아≫ 11월호 <br /><br />洪鐘仁という人が、「独島教」成立に当たって果たした役割も大きかったのではないでしょうか。<br /><br />「東和百貨店」は「旧三越」ですね。<br />http://www.arukikata.co.jp/news/staff_note/c214.html<br />ソウルを訪れた人なら誰でも1度は行くという繁華街明洞。その西南の端っこに古めかしいデパートが建っています。新世界百貨店の本店です。<br /> この建物、知る人ぞ知るのですが、戦前の日本統治時代に三越の京城(けいじょう)支店として建てられたものなのです。終戦後は韓国人経営の「東和百貨店」となり、1963年からは三星グループの傘下で名前を「新世界」と変えて現在に至っています。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-82392483754110000872010-12-07T23:10:06.796+09:002010-12-07T23:10:06.796+09:00「"心眼"で読む韓国の古新聞」シリーズ
鬱陵島報告展
ソウル新聞 1947年1...「"心眼"で読む韓国の古新聞」シリーズ<br /><br /><b>鬱陵島報告展<br /><a href="http://img2.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/66/88/chaamiey/folder/1585665/img_1585665_52937915_3?1291730374" rel="nofollow">ソウル新聞 1947年11月5日</a></b><br /><br /> 朝鮮山岳会の鬱陵島学術調査報告展覧会が、来る10日から18日まで○○東和百貨店ギャラリーで開かれる。報道班の報道写真を始めとして、動物、植物、鉱物、農林関係標本などで、石器時代以来の考古学、民俗学資料、医学班などの調査結果など各般の収穫を総合陳列し、鬱陵島と獨島の○○を見せるものとして各方面の期待が大きい。<br /><br /><br /><br /><br /> 言うのが遅れましたが、このシリーズの材料はkaneganeseさんからいただいたものです。<br /><br /><br />2010.12.07Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-50024978494816451802010-12-07T22:39:24.414+09:002010-12-07T22:39:24.414+09:00はい、その結論には同意です。
「鬱陵島の沿革」の解読の補足、ありがとうございます。おっしゃるよう...はい、その結論には同意です。<br /><br /> 「鬱陵島の沿革」の解読の補足、ありがとうございます。おっしゃるような可能性を考慮しつつ、当面、保留しておこうかと思います。<br /><br /> 「鬱陵島報告展を開いて」にある「問題化しようとしている独島」という表現についてですが、大きな状況としては、「連合軍最高司令部がマッカーサーラインを発表したが、その線が独島の東方12浬の海上を通過していたため、我々は獨島が当然わが国の領土に編入されると思っていた。ところが、1947年7月11日にアメリカ極東委員会が「日本の主権は、本州、北海道、九州、四国の諸島と今後決定される周囲の諸小島に限定される」という対日基本政策を発表すると、日本は独島は日本領土であるという世論を起こした。ここに、わが国(韓国)で初めて独島問題が発生した。」 (申奭鎬「獨島の来歴」(『思想界』1960年8月))ということであろうと思いますが、当時の韓国人が実感として竹島/独島のことをどう捉えていたのかは良く分かりませんね。たぶん、ほとんど何も知らなかったということだとは思いますが。<br /><br /> 何しろ、このときの学術調査団が、鬱陵島の島庁において例の沈興沢の「本郡所属独島は・・・・」という報告書の控えを見つけて、「何と、40年前にこんなことがあっていたのだ」と知ったような話ですしね。40年前の皇城新聞や大韓毎日申報の「独島日本領地」の報道はすっかり忘れ去られていたわけですが、そのことは、「独島日本領地」の報道が結局は何も問題になるようなことではなかったということを示しているのではないか、と思ったりします。<br /><br /><br /> ところで、皆さんへ。私がコメントを投稿しようとすると必ず「このフォームの処理中にエラーが発生しました。もう一度試してください。」というエラー・メッセージが出まして、一度で投稿できることがありません。もう一度やれば投稿できる場合が多いですが。どこがいけないんでしょうかね?<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />2010.12.07Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-45905524475642120852010-12-07T01:19:22.479+09:002010-12-07T01:19:22.479+09:00Chaamieyさん
お答え、ありがとうございます。
「独島は朝鮮のものであった事実は変らないが...Chaamieyさん<br /><br />お答え、ありがとうございます。<br /><br />「独島は朝鮮のものであった事実は変らないが、あいにくと金正浩の時代にはたまたま具体的な情報がなかったのだから、地図に描いてないとしてもしょうがないではないか。」<br /><br />確かに、そういう意味なんでしょうね。<br /><br />しかし、「独島教」に染まりきった学者の頭の中では、そうであっても、<br /><br />「あいにくと金正浩の時代にはたまたま具体的な情報がなかった」というのは、とてつもなく重い事実であろうと思います。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-48414699769446518242010-12-06T20:56:38.997+09:002010-12-06T20:56:38.997+09:00Kaneganeseさん、matsuさん、問いかけに対する返事がなかなか書き込めず、すみません。
...Kaneganeseさん、matsuさん、問いかけに対する返事がなかなか書き込めず、すみません。<br /><br />「インクのしみ」については他の人が調べてくれていますので、その結果を待ちたいと思います。<br /><br /><br /><br />Matsuさん、<br /><br />>ブログに載せていただき、ありがとうございました。<br /><br /> このブログのコメント欄に出てきた資料などは後で探すのが難しくなるだろうから別に整理しておいた方が良いのではないか、という大義名分の下に、ちゃっかり自分のブログの材料を補填させてもらっております。<br /><br /> 上の、Kaneganeseさんが代理投稿されたmatsuさんの翻訳文「『大東輿地図』に于山島がない理由」の注7に、「申景濬は、1756年、『疆界考』に安龍福事件を比較的詳しく記述し、この記録は1770年、英祖の命を受けて編纂した『東国文献備考』に反映された。」とありますが、その結果としてあの朝鮮地図の鬱陵島図ができたわけですから、安龍福の供述は、結局、そういうふうに理解されるものでしかなかったこと、言い換えれば、安龍福は実際の竹島/独島のことは知らなかったこと、がよりはっきりしましたね。<br /><br /><br /> 「『大東輿地図』に于山島がない理由」の結論についてですが、翻訳は特に問題ないと思いますので、問題は文意の解釈ですね。<br /> この論文の作者は、11世帯、男女60人余りが住んでいたという「武陵島」を「今日の独島を示すと解釈することができる」とか、「朝鮮前期に比較的明確だった鬱陵島、独島認識は、」とか、「安龍福は、于山島すなわち今日の独島を直接踏み、そうした行跡が記録に残ったが、」とか言っていますから、やはり竹島/独島は歴史的に朝鮮のものだったと考えているのだと思います。<br /> 「地図に活用される地理情報の具体性と客観性を何より重要に思った金正浩の判断を、今日の見解だけで裁断することが果たして正しいことなのだろうか。」という最後の言葉は、つまり、「独島は朝鮮のものであった事実は変らないが、あいにくと金正浩の時代にはたまたま具体的な情報がなかったのだから、地図に描いてないとしてもしょうがないではないか。」と言う意味だろうと思います。Matsuさんとはちょっと意見が異なってしまったようですが。<br /><br /><br /> 他のことはまた書きます。<br /><br />2010.12.06Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-14971517237929178022010-12-06T16:27:11.715+09:002010-12-06T16:27:11.715+09:00(続く)と書きましたが、あんまり続けて投稿すると長すぎるので、また後程後半を投稿します。(続く)と書きましたが、あんまり続けて投稿すると長すぎるので、また後程後半を投稿します。Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-50709248484032961622010-12-06T14:38:15.217+09:002010-12-06T14:38:15.217+09:00(続き)
(3)表現上の特徴
①自然地形の表現
金正浩が指摘したように、山脈と水の流れは地表面の...(続き)<br /><br />(3)表現上の特徴<br /><br />①自然地形の表現<br />金正浩が指摘したように、山脈と水の流れは地表面の筋骨と血脈になるから、過去の地図製作者は他よりも優先的に山川の表現に関心を持った。鄭尚驥の『東国地図』で、山川の表現と関連して最も著しい特徴は、山系と水系が以前の地図とは比較にならないほど非常に詳細になったという点だ。<br />以前の地図は小縮尺地図であるから山系と水路を詳しく表現できない側面があるけれども、基本的に山川に代表される空間に対する認識は、後代に比べてだいぶ制約されていた。 <br />しかし鄭尚驥の『東国地図』に至って大縮尺地図で製作され、山系と水路がより詳しく表現される余地が用意され、以前までに蓄積された空間認識をもとに、後代の金正浩の地図と比較しても遜色がないほどの山川体系を表現している。<br /><br />これと共に、山脈体系に立脚した地形表現がより一層具体化された。山脈体系は、白頭山から智異山までを一つの大きな山脈としており、この山脈から大きく枝別れした二次的な山脈は、大河川の流域の稜線であり、さらにここから伸びた支脈にしたがい、地形を表現したのである。このような山脈は、河川を分ける分岐点の役割もする。従って、山脈はそれぞれの流域を分ける境界にもなるのだ。<br /><br /> [図6-53]朝鮮時代の地図の地形表現 資料: 李祐炯・呉尚學(2004)<br /><br />このような山脈体系は、私たちの長い間の伝統地理認識体系に根拠を置いたもので、東アジアでも中国や日本には見られない朝鮮独特のものであり、地図上でも明確に違いが現れる。山脈中心の地形表現技法は、以後金正浩の『大東輿地図』に引き継がれて確立された。<br /><br />②交通路の表現<br /><br />人文的要素の中で最も目立つのは交通路だ。 <br />現存する以前の時期の地図を見ると、大部分が道路網が表現されていない。疏略な『東覧図』系列の地図では勿論ではあるが、梁誠之・鄭陟の『東国地図』類型の地図でも交通路が表示されないことがある。しかし鄭尚驥の『東国地図』に至って交通路が詳しく表示された。 <br />ソウルを中心にして地方に延びていく道はもちろん、各郡県を繋ぐ連結道路まで詳しく描き、西海岸から南海岸に達する海路までも表示した。また山地上の嶺路である峠も詳細に表示されている。<br />このように交通路に対する強調は、地図の実用性を高揚させたと評価される。朝鮮後期に商工業が発達して地域間の交流が活発になり、地図は実用性をより重く考慮することになったと見られるのである。<br /><br />道路は、太い紅線と細い紅線の二つの形態で描かれており、幹線道路網は太線、支路は細線で処理した。『増補文献備考』には、大路はソウルから始まって、第1「西北・義州」、第2「東北・慶興西水羅」、第3「東・平海」、第4「東南・東莱」、第5「南・統営」、第6「南・統営一路」、第7「南海・南館頭梁済州」、第8「西南・忠清水営」、第9「西・江華」の全国9大路で、ここから分かれて間路が付加され、全国の交通網を構成している。 『東国地図』の写本では、これら9大路が太線で描かれ、ここから分かれる間路や、村の間を連結する小路は、細い線で描かれることが普通である。<br /><br />海路は『増補文献備考』に記録された航路と似ている。4)<br />4)『増補文献備考』巻23 関防11 海路.<br /><br />記録では、出発地を京都(ソウル)の龍山江としているが、『東国地図』でも漢江の龍山川までを連結して描いた。南海岸の航路は、江華の孫乭項(ソンドルモク)を経て、西海岸の島嶼を左に迂回して、東に蔚山まで続く。北側の航路は、漢江の河口から喬桐を経て、鴨緑江河口の龍川の薪島まで連結される。航路の性格上、漕運と深い関係があるということが分かる。<br /><br />③その他の要素の表現<br /><br />『東国地図』には、交通路とともに駅堡、山城、烽燧のような軍事的な内容が詳しく収録されている点も特徴的だ。鄭尚驥は、国防に関して格別な関心があったので、自身の地図でもこれを重視して表現したのだ。駅の場合は、察訪駅だけを描いたが、鎮堡の場合は沿海と北方のものがほとんど網羅されている。 <br /><br />山城の場合、古城よりは当時国防上の要地で、実際に軍隊が駐留していた城を中心に描いたと見られる。烽燧も、以前の地図とは違い、非常に詳細に表示されている。特に営邑の城郭ももれなく表示して、国防に対する農圃子の多大な関心をのぞくことができる。この他にも、有名な浦口と村、寺刹、古邑、貯水池、渡し場なども描いている。これら人文要素の表現方式は、『東国地図』の跋文によく現れており、次の引用文がそれだ。<br /><br />「彩色方法においては、京畿は純黄、湖西は紅白、湖南は純紅、嶺南は青紅、嶺東は純青、海西は純白、関西は白黒、関北は純黒。山は緑色、河川は青とした。 紅線で水陸の大路を描き、黄線で道の左右の境界を表示した。墩型の紅点で烽燧を現わし、白い城郭は山城を表わし、営邑に城がある場合は外に白い縁どりをし、駅堡は円として青と黄で分けて表示した。このように皆、地図を描いたので、凡例や地図を見る人は詳しく熟知することを望む。」5)<br /><br />5)若其施采卞色、即京畿純黄、湖西紅白、湖南純紅、嶺南即青紅、嶺東純青、海西純白、関西黒白、関北純黒。山以緑、水以青。紅線画水陸大路、黄線別左右分界。墩形而点紅以記烽燧、粉堞而留白以表山城。営邑有城外施白線。駅堡成圏乍分青黄。此皆作図之、凡例覧者詳之。<br /><br />引用文で知ることが出来るように、『東国地図』は彩色の筆写本地図だから多様な色を地理的事象の表現に利用している。<br />各道別に、五色を使って郡県を区分したが、概略的に中央は黄色、東側は青色、西側は白色、南側は紅色、北側は黒色の原則に立って、一部の道は色を混合して彩色した。 <br />黄線で各道の左道と右道の境界を表示し、烽燧(狼煙)は高台の形状に火を現わす赤い点で表現した。山城は白い城郭を描いて表現し、邑に城がある場合は、山城と区分するために白い線を丸く描いた。駅院と鎮堡は小さい円で表現したが、青色と黄色で区分した。 <br />このような彩色と記号を利用した表現方法は、以後の方眼式の郡県地図や、大縮尺の郡県地図に引き継がれ、金正浩の『東輿図』や『大東輿地図』の精巧な凡例に発展した。<br /><br />(続く)Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-84780982763467522912010-12-06T14:36:50.614+09:002010-12-06T14:36:50.614+09:00(続き)
(2) 『東国地図』の地名分布3)
3)『東国地図』に収録された地名の分布は、『東国地...(続き)<br /><br />(2) 『東国地図』の地名分布3)<br /><br />3)『東国地図』に収録された地名の分布は、『東国地図』原本に近い写本と評価される国立中央博物館所蔵の東国大全図に収録されたものを対象に分析した。<br /><br />①自然地名<br /><br />『東国地図』の全体の地名数は2,580個余りで、朝鮮の部分に2,170個余り、中国の部分に300個余り、日本の部分に110個余りが表記されている。朝鮮部分の2,170個余りの地名は、一般の八道分図の地名数と概略似た数値だ。このような地名のうち、軍事的に重要な関防に関連したものは大きい字で強調している反面、他の地名は細く小さく表記した。<br /><br />地名の中で、自然地名はあわせて1,176個で、山峰名565個、峠の名前298個、川・河川・浅瀬の名前92個、島嶼の名前169個、その他として平野・湖・堤堰・串(岬)・窟・滝など52個だ。山の名前と峠の名前の中では、峠の名前が山の名前の半分を占めるほど比重が高い。これは山の名前と峠の名前が同じである時、日常生活で重要な峠の名前を優先して山の名前を省略したためだ。島嶼の場合は、大部分が有人島であり、内陸の郡県に所属した越境地である場合も多い。<br /><br />②人文地名<br /><br />地図に収録された人文地名は、合わせて1,000個余りだ。 <br />京城を除いた郡県名333個、倉庫36個、兵水営17個、鎮堡205、察訪駅40個、山城36個、津渡36個、浦口14個、寺刹21個、その他260個余りだ。 その他には坊面・古邑が50個余り、越境地28個、駅院50個余り、陵寝25個で、楼閣、史跡、橋梁等も一部収録されている。 <br />全体的に見れば鎮堡・山城・兵水営など軍事的項目の比率が高く、他の地名に比べて詳しく強調して表示したと見ることができ、軍事的性格が強い地図であることがわかる。こうした地名は、官で作った地図なので誤りは少なく、変化した地名もよく反映されている。<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />[表6-9]自然地名の項目別個数<br />京畿道、忠清道、江原道、全羅道、慶尚道、黄海道、平安道、咸鏡道 合計<br />山・峰・岳 44 56 63 71 98 60 83 93 565<br />峠 16 24 46 31 26 9 81 65 298<br />江・川・灘 12 8 8 5 13 7 21 18 92<br />島嶼 29 15 3 66 23 16 12 5 169<br />その他52<br />合計1,176<br />資料: 李祐炯・呉尚學(2004)<br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br /><br />[表6-10]人文地名の項目別個数<br />京畿道、忠清道、江原道、全羅道、慶尚道、黄海道、平安道、咸鏡道 合計<br />郡県(有城) 36(10) 54(9) 26(5) 56(21) 71(9) 23(6) 46(11) 23(7) 333<br />倉庫2 5 2 2 4 1 9 11 36<br />兵水営1 2 0 3 4 3 1 3 17<br />鎮堡14 5 2 25 35 17 55 51 205<br />察訪道6 5 4 6 11 3 2 3 40<br />山城5 2 0 5 7 6 10 1 36<br />津渡6 8 1 7 9 3 1 1 36<br />浦口3 3 2 1 0 0 0 5 14<br />寺刹3 0 6 2 4 1 2 3 21<br />その他258<br />計996<br />資料: 李祐炯・呉尚學(2004)<br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br /><br />(続く)Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-534220563115511462010-12-06T14:35:32.780+09:002010-12-06T14:35:32.780+09:00(続き)
(3)東国地図の特徴
(1) 『東国地図』の体裁と形態
鄭尚驥の地図は、大全図(図6-...(続き)<br /><br />(3)東国地図の特徴<br />(1) 『東国地図』の体裁と形態<br /><br />鄭尚驥の地図は、大全図(図6-51)と、これを八道に分けて帖に作った八道分図(図6-52)で形成されている。 <br />現在、鄭尚驥の原図自体は伝えられていないと見られるから、現存する写本をもとに原図の姿を把握してみるほかはない。大全図は、現存の写本が八道分図に比べて非常に少ないが、これらの規格は概略、横130~140cm、縦240~260cm程度である。 <br />朝鮮前期の代表的な地図である、梁誠之・鄭陟の東国地図類型に属する『朝鮮方域之圖』の規格が、横61cm、縦132cmであることを見ても、鄭尚驥の地図が以前の時期の全図とは違う大縮尺の地図であることがわかる。しかし、このような大縮尺の全図は、何枚もの紙を繋ぎあわせて描かなければならないという転写上の不便さと、閲覧・携帯上の問題のために、後代まで活発に転写して続くことはできなかった。代りに八道分図の形式が鄭尚驥の地図写本の主流をなすことになる。<br /><br />鄭尚驥の八道分図は、以前の八道分図とは違った様式になっている。 <br />すなわち、『東国輿地勝覧』のような地理誌にのせられる八道分図は、各道別地域の広狭に関係なく、ある紙面に無条件に一つの図を配分して描いたので、縮尺が互いに違って山川の表現と道里が全く不正確であるのが特徴だった。鄭尚驥の八道分図は、このような問題点を解消させるために考案されたもので、京畿道と忠清道は、面積が他の道に比べそれほど広くないために一枚の地図に合わせ、咸鏡道は、広い面積のために南道と北道に分離して2枚の地図に作った。したがって、各分図の規格も、多少差異があるが、概略、横60cm、縦100cm内外である。<br /><br /> [図6-52] 『東国地図』の八道分図 写本中、咸鏡北道の部分 資料:奎章閣<br /><br />鄭尚驥の八道分図は、様式上においてまた他の特徴を見せている。それは帖になっているという点だ。帖に作った理由は閲覧と携帯上の便宜のためであるが、このような形式は農圃子の地図以前にもあったものとみられる。『東国輿地勝覧』にのせられた『東覧図』のような地誌の内容を補完する補助的な地図ではなく、独立的に刊行された地図冊が、すでに16世紀を経て17世紀になってひろく流行していた。<br />鄭尚驥は、まさにこのような成果を継承して大縮尺の分図帖を作ったのであるが、こうした様式は、以後、各郡県地図集をはじめとして、金正浩の『青邱図』『大東輿地図』に至るまで、大縮尺の地図帖は、朝鮮後期の地図学史上の一つの大きな流れとして席を占めるのに相当な影響を及ぼしたのだ。<br /><br />『東国地図』は、朝鮮前期の地図と比較した時、まず輪郭に大きな差を見せている。このような差は、特に鴨緑江・豆満江の流域を中心とする韓半島の北部地方で顕著に現れている。梁誠之・鄭陟の『東国地図』を継承した大部分の地図は、北部地方が中・南部地方に比べて面積が小さく表現され、特に鴨緑江と豆満江の流路が不正確である。また鴨緑江と豆満江の河口は、緯度上は相当な違いがあるにもかかわらず、ほとんど同じ緯度線上にあるように表現されている。 <br />鄭尚驥の地図では、このような前期の地図の欠点がほとんど克服され、現代の地図の韓半島の輪郭と比較してみても、それほど差がないほど正確な輪郭を見せている。<br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />[表6-8]現存する『東国大全図』写本の現況<br />地図名 所蔵先 図書番号 製作時期 規格(cm) 百里尺 周辺国<br />朝鮮地図 国立中央博物館 トク4396 1755~1767 271.0×139.0き損 中国・日本<br />筆者未詳朝鮮地図 国立中央博物館 トク5996 1755~1767 257.0×150.8百里尺(9.4cm) 中国・日本<br />朝鮮八域図 国立中央図書館 古朝61-7 1789~1800 243.0×138.7 なし なし<br />朝鮮全図 ソウル大奎章閣 古軸4709-96 1800以後 248.5×123.5 なし なし<br />八路総図 ソウル大奎章閣 古メ912-51 1758~1767 247.0×147.0 なし なし<br />朝鮮全図 崇実大博物館 1778~1800 248.5×134.5 なし なし<br />東国大地図ソウル歴史博物館 18世紀後半252.5×139.5 なし なし<br />資料: 李祐炯・呉尚學(2004)<br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br /><br />(続く)Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-20192710960563549612010-12-06T14:34:03.281+09:002010-12-06T14:34:03.281+09:00(続き)
(2)東国地図の製作過程
文献資料の限界によって『東国地図』の製作過程を具体的に把握する...(続き)<br /><br />(2)東国地図の製作過程<br />文献資料の限界によって『東国地図』の製作過程を具体的に把握するのは難しい。 <br />しかし『東国地図』の写本に収録された跋文を通じて概略を把握することができる。 次は、鄭尚驥の『東国地図』のうち、初期の写本に載っている跋文の一部である。<br /><br />「世の中に出回っている我が国の地図は非常に多いが、写本・印刷本を問わず、皆が紙面の広狭と方円によって描いたために、山川と道里が食い違っている。十里余り程の近いところが数百里より遠く、数百里程の遠いところが十里余りより近い。東西南北の方位に至っては、その位置が変わってしまい、地図を見て四方を歩き回ろうとしても一つも頼ることはできないから、暗闇の中で道を行くのと変わらない。私はこれを憂えて、ついにこの地図を作ったのだ。」2)<br /><br />2)『東国地図』跋文.<br />我国地図行於世者、不知其数。而無論其模本印本、皆従紙面闊狭方円。而為之故、山川道里、尽為相左。十余里之近者、或遠於数百里。数百里之遠者、或近於十余里。以至東西南北、或易其位。若按其図、而欲往遊於四方、即無一可拠、与冥行者無異矣。予以是病焉、遂作此図。<br /><br />上の地図の跋文で知ることが出来るように、鄭尚驥は、以前の時代の地図が多くの欠陥を持っていて、地図としての役割を果たすことができないことを残念に思い、より正確な地図を作るために地図製作に臨むことになった。当時の社会に通用していた地図は、大部分が紙面の形にしたがって作られたために、距離や方位が正確でなかったためだ。<br />こうした地図の代表的な地図が『東国輿地勝覧』に挿入された、別名『東覧図』という八道総図と道別図である。『東国輿地勝覧』版本の横と縦の比率に合うように地図の形態を調整したので、八道総図の姿は南北に圧縮された形態で現れ、各道別図も、やはり版本の規格に合うように地図の形態を調整し、縮尺も一定でない欠点を持っていた。 <br />また『東覧図』は、行政、軍事的用途よりは『東国輿地勝覧』の附図として作られたもので、地図にのせている内容も非常に疏略である。このような類型の地図は、当時民間でだいぶ流行していたようである。<br /><br />[図6-51] 『東国大全図』 資料:国立中央博物館<br /><br />当時の地図が持っていた欠点を改善するために鄭尚驥は晩年に『東国地図』製作に没頭するが、具体的な製作過程は記録の不在で把握するのが難しい。しかし、地図製作は絵画のような芸術作品とは違って個人の独創性によっては成り立たず、歴史的、社会的に蓄積された以前の成果を基礎にするほかはない点を考慮するならば、地図製作当時の社会的背景を通じて糸口を見つけることができるだろう。歪曲された輪郭を持つ『東覧図』類型の地図と、国土の姿を実際に近く描写した鄭尚驥の『東国地図』をすぐに結びつけるには無理があるためだ。<br /><br />事実、壬辰倭乱以後の17世紀頃、国家的事業としての地図製作に関する記録はあまりなく、現存する当時の地図も殆どない。従ってこの時期は地図製作が停滞した時期と見られてきたために、鄭尚驥の『東国地図』が誕生したのを説明できなかった。 <br />しかし、これとは反対に、鄭尚驥の地図が製作された時期は、むしろ壬辰倭乱と胡乱を体験し、軍事的・行政的次元での地図製作がより一層要求される状況であり、経済・社会的にも、戦争後の復旧事業に総力を傾けて、量案(土地台帳)の整理と戸籍の整備が国家的次元で行われていたし、農業生産力の回復のために農地の開墾と農法の改良が広範囲に進行していた時であった。このような農業での生産力の増大は、手工業・鉱業まで拡大して商品交換経済の発達を刺激し、これによって地域間の相互作用が活発に成り立っていた。<br /><br />また、文化的にも、実学が胎動して確立期に入る時期であったが、このようなすべての条件は、当時の地図製作に有利な環境を作っていた。<br />特にこの時期に至り、民間での地図所有を禁止した朝鮮前期とは違って、官吏を中心に一定程度の地図の所有が可能になり、これをもとに民間での地図製作が活発に行われることができた。 <br />実際に、金正浩の『青邱図』の凡例で優れた地図製作者として言及されている尹鍈(ユン・ヨン)(17世紀の人物と推定)、黄曄(ファン・ヨプ)(1666~1736)のような人も、この時期に活躍していた。 <br />また、17世紀を経て18世紀に入り、清国との国境紛争を契機に、辺境に対する関心が増大した時期であり、国家的次元でも多くの関防地図が製作されることもした。中国から地図および地理誌を積極的に輸入し、これをもとに辺境地域の地図を製作して国防に利用したのである。<br /><br />鄭尚驥の地図は、まさにこのような社会的背景の中で出てきたものであり、当時までに蓄積された地図製作の成果と地理の知識を活用したものである。現存する唯一の著作である『農圃問答』でも指摘しているように、彼は病弱のため、村の外をまともに抜け出して見たこともなかった。従って全国土を現地調査し、測量して『東国地図』を製作したのではない。むしろ、朝鮮前期の大学者で高位の官職にあった鄭麟趾の直系の子孫として、家に所蔵された地図や各種の地理誌などを簡単に利用することができたし、当代最高の実学者であった星湖李瀷をはじめとする色々な学者との交流を通じて、新しい資料を得ることが出来たものとみられる。 <br />このようなすべての資料をもとに、百里尺を利用した独特な方法を使って、当代最高の『東国地図』を製作できたのだ。<br /><br />(続く)Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-9912269233458898872010-12-06T14:32:44.968+09:002010-12-06T14:32:44.968+09:00matsuさんが呉尚学氏の論文を訳して下さったので、長くて消えてしまうかもしれないのでこちらも私が代...matsuさんが呉尚学氏の論文を訳して下さったので、長くて消えてしまうかもしれないのでこちらも私が代理投稿します。<br /><br />(以下matsuさんによる翻訳)<br />-------------------------------------<br />『韓国地図学発達史』<br />6鄭尚驥の東国大地図 1)195p 呉尚學 <br />101201 完成稿手入れ版<br />http://www.land.go.kr/info0303.do<br />http://www.land.go.kr/document/info/cartology/cartology_06_56.pdf<br /><br />1)本稿は、筆者の次の論文をもとに、修正・補完して作成されたことを明らかにする。 <br />呉尚學、1994「鄭尚驥の『東国地図』に関する研究 -製作過程と写本の派閥を中心に-」ソウル大学校修士学位論文<br />李祐炯・呉尚學、2004「国立中央博物館所蔵『朝鮮地図』の地図史的意義」『文化歴史地理』16(1),165-181.<br /><br />(1) 鄭尚驥の生涯と学問<br />朝鮮後期の実学者の鄭尚驥は、粛宗4(1678)年に出生し、英祖28(1752)年に75才の年齢で命を終えた。字は汝逸、号は漁隠または農圃子である。 <br />祖先は、朝鮮前期の有名な学者であった河東府院君の鄭麟趾である。 <br />幼くて父をなくした鄭尚驥は母と互いに助けあって生活したが、家勢はかなり貧窮であった。成長して何度も科挙を受験したが失敗し、また病弱のため早く官途をあきらめて家業を継承した。<br /><br />鄭尚驥の夫人は驪興李氏、咸鏡道都事・李萬休の娘で、夫より18年早く亡くなった。李萬休の父、県監・李湜は、星湖李瀷の従祖父(父方の祖父の兄弟)であり、鄭尚驥夫人と李瀷は近い親戚にあたり、これによって李瀷は鄭尚驥と接触を結ぶことになる。この二人の親交は、それから30年以上も持続し、学問的な面だけでなく人間的な面でも無二の親友として過ごすことになった。<br /><br />訳注:李瀷(イ・イク)(1681–1763)号は星湖。<br /><br />鄭尚驥は、膝下に希天、泰齢、恒齢、台齢の4人の息子を持ったが、このうち希天は幼くて死に、台齢も35才の年齢で若死した。泰齢は官途につけなかったが、<br />恒齢(ハンニョン)(1710~1770)は、英祖11年(1735)、進士に主席で合格した後、官途につくことになる。 <br />鄭尚驥は、息子の恒齢により、晩年に中枢府僉知の位を再受された。<br /><br />恒齢の息子、元霖(ウォンニム)(1731~1800)は、通政大夫・敦寧府都正という位まで上がることになり、正祖の時、推薦されて『輿地勝覽』編纂を担当したりもした。 <br /><br />師霖(サリム)の長男・遂栄(スヨン)(1743~1831)の号は之又斎で、幼いころから詩文と書画に優れて多くの絵を残し、鄭尚驥の東国地図を修正・校補するのに重要な役割を担当した。こうして鄭尚驥の一族は、農圃子、恒齢、元霖、遂栄に至る4代にかけて、地図製作の名家として歴史に名を残すことになったのだ。<br /><br />鄭尚驥の学問は、必ず先人の学から始め、多くの書籍をあまねく渉猟して多方面で豊富な知識を積んだ。そして中年以後には外出することなく在宅して著述に没頭し、『農圃問答』、『人子備鑑』、『深衣説』、『韜鈐篇』、『郷居要覧』、『治郡要覧』などの多くの著作を残した。しかし『農圃問答』を除いては今に伝わっていない。<br /><br />彼が常に言うには、「儒者は、たとえ窮迫して家にいても、意は常に国を救済するところにある。およそ治民、治兵、山川、関防、財賦、城郭、車甲、器械、行陳、医薬、蚕績、耕農、日用の道具などは、真に人々の助けになることであるから、深く推し量らなければならない」と言い、自ら農圃子という号をつけて田舎に居住し、直接に農作業をしたりもした。<br /><br />このように彼の学問は、空理空論よりは実用的な性格を帯びていたし、多方面に渡って幅広く窮究した。特に彼は国防を重視して『刀剣篇』のような軍事関係の専門書籍を著述したりもしたが、現存する『農圃問答』でも、国防関連の項目が相当部分を占めている。 <br />事実を知り、是非を判断する彼の学問的指向は、当代の実学の大家、星湖李瀷との交流を通じて、より一層成熟し、ついに晩年に『東国地図』という力作で実を結ぶことになった。<br /><br /><br />(続く)Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-56076216820459667482010-12-06T14:29:54.363+09:002010-12-06T14:29:54.363+09:00matsuさんのコメント、消えたんですか。
何故でしょう…
鈴木宗雄衆議院議員が収監されました。い...matsuさんのコメント、消えたんですか。<br />何故でしょう…<br /><br />鈴木宗雄衆議院議員が収監されました。いい意味でも悪い意味でも竹島問題を国会で一応取り上げてくれていたので、残念といえば残念ですね。<br /><br />2010.12.06.Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-92029612601873812212010-12-06T12:40:17.487+09:002010-12-06T12:40:17.487+09:00一つ前のコメントの後半をふたたび入れます。
それから、おっしゃるように、この文章は、「蝶博士」ある...一つ前のコメントの後半をふたたび入れます。<br /><br />それから、おっしゃるように、この文章は、「蝶博士」あるいは「動物学」専門である石宙明にとっては、畑違いの内容です。<br /><br />鄭秉峻『解放後韓国の独島に対する認識と政策(1945-51)』<br />http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima01/kenkyukaijoukyou.data/3-12.pdf#search='%E9%9F%93%E5%9B%BD%E5%B1%B1%E5%B2%B3%E4%BC%9A<br /><br />によると、<br />1947年の朝鮮山岳会の鬱陵島・独島調査隊は、8月28日にソウルに帰り着いており(11p)、こうした文章をそのあと数日で書いて9月2日の紙面に載せるのは大変そうです。<br />あるいは、この「鬱陵島の沿革」の原稿は、鬱陵島に行く前に書いておいてあり、掲載が9月2日になったのかもしれません。<br />一方で、石宙明は「鬱陵島の自然」という原稿を、9月9日づけでソウル新聞に掲載していますが(12p)、こちらは帰って来てから、現地報告を含めて書いたのかもしれません。<br /><br />いずれにしても、この石宙明「鬱陵島の沿革」に、この段階で「獨島」がまったく出て来ていないことは重要だと思います。書こうとしても、材料がなかったのでしょう。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-78280296494464539262010-12-06T12:24:49.162+09:002010-12-06T12:24:49.162+09:00新しいコメントです。
Chaamieyさま
続いて、洪鐘仁「鬱陵島報告展を開いて」 1947.1...新しいコメントです。<br /><br />Chaamieyさま<br /><br />続いて、洪鐘仁「鬱陵島報告展を開いて」 1947.11.15も翻訳されましたが、<br />これも大事な情報を含んでいると思います。<br />http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/52971264.html<br /><br />chaamieyさんは<br />「その中で、無人孤島として問題化しようとしている独島の全貌も取り上げることになる。」<br />の部分を、アンダーラインをして強調されていますが、<br />この「問題化しようとしている独島」という表現は、このときに、すなわち1947年の11月の段階で、ようやく「問題化し始めた」ことを示しています。<br /><br />さらに重要なのは、洪鐘仁がこのなかで、<br />「国土の発展は領海と領海圏の拡大、海上行動半径の拡大確保が絶対条件になるものだ。」<br />として、「領海と領海圏の拡大、海上行動半径の拡大確保」が、「独島領有化」の目的だと述べていることです。<br /><br />植民地時代に、鬱陵島を拠点にした日本人によって開発された竹島の漁業権益を、日本人が追放されて真空状態となったのを機会に、鬱陵島漁民が確保しようという動きが、背景にあるものと想われます。<br />鬱陵島の漁民が、権益確保を慶尚北道の道庁に訴え、それがソウルで問題化して、「独島確保」に乗り出す過程があるのだと思います。<br /><br />翌年1948年6月の独島への米軍の爆撃演習で死者が出たことが、中央と国民の関心をさらにひくことになるのでしょうが、このとき、米軍からの爆撃演習の警報が、日本側にはしっかり出ていたのに、韓国側(当時はまだ米軍軍政下の南朝鮮過渡政府)には、まったく警報が出ておらず、いわば「密漁状態」にあった漁民が、被害にあったのだと思います。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-86570699580475445252010-12-06T12:24:16.976+09:002010-12-06T12:24:16.976+09:00それから、おっしゃるように、この文章は、「蝶博士」あるいは「動物学」専門である石宙明にとっては、畑違...それから、おっしゃるように、この文章は、「蝶博士」あるいは「動物学」専門である石宙明にとっては、畑違いの内容です。<br /><br />鄭秉峻『解放後韓国の独島に対する認識と政策(1945-51)』<br />http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima01/kenkyukaijoukyou.data/3-12.pdf#search='%E9%9F%93%E5%9B%BD%E5%B1%B1%E5%B2%B3%E4%BC%9A<br /><br />によると、<br />1947年の朝鮮山岳会の鬱陵島・独島調査隊は、8月28日にソウルに帰り着いており(11p)、こうした文章をそのあと数日で書いて9月2日の紙面に載せるのは大変そうです。<br />あるいは、この「鬱陵島の沿革」の原稿は、鬱陵島に行く前に書いておいてあり、掲載が9月2日になったのかもしれません。<br />一方で、石宙明は「鬱陵島の自然」という原稿を、9月9日づけでソウル新聞に掲載していますが(12p)、こちらは帰って来てから、現地報告を含めて書いたのかもしれません。<br /><br />いずれにしても、この石宙明「鬱陵島の沿革」に、この段階で「獨島」がまったく出て来ていないことは重要だと思います。書こうとしても、材料がなかったのでしょう。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-12462673234607225052010-12-06T12:23:56.649+09:002010-12-06T12:23:56.649+09:00また消えたので、短く分けていれます
Chaamieyさん
石宙明「鬱陵島の沿革」の新聞記事ですが...また消えたので、短く分けていれます<br /><br />Chaamieyさん<br /><br />石宙明「鬱陵島の沿革」の新聞記事ですが、ここに「獨島」という名前が出てきていないことは大事だと思います。<br />http://blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/52948551.html<br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />朝鮮を代表する島の一つである鬱陵島が我が朝鮮国の属島であったことは疑う余地がなく、かつては于山国として知られ、済州島が耽羅国として知られていたのと対照をなす。この于山国は、その後、羽陵島、武陵島、蔚陵島、鬱陵島等と呼ばれて来たが、全て○○を言ったもののようだ。李朝成宗2年(1471年)には臣朴元宗一行がこの島から大竹と大○魚を持ち帰って来たことがあったが、この大竹の名産地だとして、この鬱陵島は竹島としても知られるようになった。<br /> しかし、現在は鬱陵島に統一されており、竹島という名は東○の●●島名として指定され、この竹島が爾来我が朝鮮の東端地点を示して来た。<br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />○○について考えると、<br />全て○○を言ったもののようだ。は「鬱陵」ではないでしょうか<br />大○魚は、『新増東国輿地勝覧』に「大鰒魚」とあります。「鰒」だけで「あわび」のようですが。<br />そして最後の、問題の箇所は、<br />「竹島という名は「東隣にある」島名として指定され」ではないでしょうか。<br />インクのしみは、「있는」ではないでしょうか。<br /><br />「この竹島が爾来我が朝鮮の東端地点を示して来た。」<br />は、崔南善の朝鮮常識問答によったのではないかと思います。<br />たしか、東端は「慶尚北道鬱陵島竹島」というような文言があったと思います。<br /><br />「于山島」について韓国側が言及するのが確認できるのは、これまでのところ1953年以降のようですから、この段階で「于山島」にふれているとすると大発見です。Anonymousnoreply@blogger.com