tag:blogger.com,1999:blog-26948035.post6195072183402849141..comments2024-01-26T17:48:29.804+09:00Comments on Dokdo-or-Takeshima?: The 18th column “Seeking Truth Based Solely on Facts(実事求是)”Gerry Bevershttp://www.blogger.com/profile/14311939520870098017noreply@blogger.comBlogger75125tag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-23349350657942403762009-04-19T08:06:00.000+09:002009-04-19T08:06:00.000+09:00コメント欄が長くなりすぎて、携帯電話では表示出来なくなってしまったので二つ先の、
1934 Jan...コメント欄が長くなりすぎて、携帯電話では表示出来なくなってしまったので二つ先の、<br /><br />1934 Jan 30 - "Maeil Sinbo" - Article on Ulleungdo <br /><br />のコメント欄に移動いたしましょう。yabutarouhttps://www.blogger.com/profile/16266569351900219828noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-47434138360129330222009-04-19T03:09:00.000+09:002009-04-19T03:09:00.000+09:001903年の資料では15洞になっているようです。
1903.08.10.皇城新聞, 雜報 鬱島報...1903年の資料では15洞になっているようです。<br /><br />1903.08.10.皇城新聞, 雜報 鬱島報告<br />鬱島郡守 沈興澤氏가 內部에 報告하되 該島居民이 各處에 居하야 <B>十五洞</B>이오 戶數난 五百戶이고 所産之物은 麥太甘藿이라. 其○○組織하난 節次난 人民의 方便을 隨하야 磨鍊하려니와 在鄕 各浦에 在한 日人이 六十三戶인 日日伐木이 無限故로 郡守가 來駐하난 日檢을 請하야 談辦하기를 外國人이 內地에 入하야 材木을 伐去이 當初不法일더러 今己設部하얏슨 則 鬱島郡守의 管轄하난바 已往事난 勿論하고 玆今以後로난 不可伐木이오 ○○도亦嚴禁하라한즉 日巡査言內에 此島內에 伐木이 已過數十年이오 又貴政府와 日公使가 交涉하야 ○○○○가 無한즉 巡査난 不能禁斷이라하니 日公使에게 照會하야 妥商하라하얏더라.GTOMRhttps://www.blogger.com/profile/06881539471132140299noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-27447455715168064212009-04-19T00:32:00.000+09:002009-04-19T00:32:00.000+09:00Matsu様
1892年の文献有難うございます。知人に尋ねたらこのよう鬱陵島の文化の紹介のサイトがあ...Matsu様<br />1892年の文献有難うございます。知人に尋ねたら<A HREF="http://ulleung.grandculture.net/gc2/common/sub.jsp?pact=view_id&h_id=GC01500509" REL="nofollow">このよう鬱陵島の文化の紹介のサイト</A>があり、其の中に、鄭處士述懷歌がありましたがまだよく読んでいません。<br /><br />此の分権は今まで知りませんでしたが、以下の事が非常に興味をそそられます。<br /><br /><I>この作品は、鬱陵島を素材にした歌辞の中で一番初期のもので、島一周の路程、<B>いろいろの形態の岩と大小の峰</B>、奇妙な草と木などの自然をよく描いた点と、作者の数奇な一生を率直に述懐した点で、歌辞文学上、高く評価されている。</I>GTOMRhttps://www.blogger.com/profile/06881539471132140299noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-79790809214131020912009-04-18T23:49:00.000+09:002009-04-18T23:49:00.000+09:00matsu さん、
>結局、私たちはかなり似たことを言っているように思います。
全くそのとおりで...matsu さん、<br /><br />>結局、私たちはかなり似たことを言っているように思います。<br /><br />全くそのとおりですね。新しい情報が得られなければこれ以上議論しても水掛け論にしかなりません。<br /><br />>韓国側が、「石島は北面に属す」という、自らに圧倒的に不利になる史料を「でっちあげる」ことはありえません。<br /><br />まさにそこが重要な部分です。韓国側が、自らに圧倒的に不利になるとわかっている史料をでっちあげて公表することはありえません。<br />にもかかわらず「石島は北面に属す」と書いたのはこの言葉が韓国にとって都合の悪いことが理解できなかったためにうっかり本当のことをかいてしまったのではないかと私は考えました。<br /><br />このように考えたのには実は根拠があります。私は以前「石島=独島説の秘密」と題する文章を書いたことがあります。<br /><br /><A HREF="http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&mid=16259" REL="nofollow">「石島=独島説の秘密1」</A> <br /><br /><A HREF="http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&mid=16260" REL="nofollow">「石島=独島説の秘密2」</A> <br /><br /><A HREF="http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=cddeg&sid=1835396&mid=16263" REL="nofollow">「石島=独島説の秘密3」</A> <br /><br />これは「勅令41号が発布された1900年当時の鬱陵島開拓民は全羅道出身者が過半数を占めていた」という韓国における定説が「でっちあげ」であることを指摘した文章です。<br /><br />ところが鬱陵郡の公式サイトにはこのように書かれていました。<br /><br />「鬱陵島の方言は開拓の時から現在まで入居者大部分が慶尚道と江原道地方人で特に慶尚北道の競走,英和,霊徳と江原道の三尺,(開拓当時)地帯で一番多く入居したので方言もこのような地域の方言になって形成されているが,競走,嶺南である地方の方言が一番多いとする.」<br /><br /><A HREF="http://www.ulleung.go.kr/01_ull/page.htm?mnu_siteid=ull&mnu_uid=117&" REL="nofollow"> 鬱陵郡の公式サイト</A> <br /><br />ようするに鬱陵島では開拓の時から現在まで慶尚道と江原道出身者が過半数であって「全羅道出身者が過半数」という言説が間違いであることは方言研究の分野ではとっくの昔から定説であったということです。<br /><br />私はこれを見て韓国人は竹島問題のような民族の自尊心に関わる分野では平気で嘘をつく、もしくは都合の良い嘘を信じるが、同じ事象を語るにしてもそれが竹島問題のような民族の自尊心に関わることであると気がつかなければうっかり本当のことを書いてしまうのではないかと考えました。<br />そして同じ事象を語っているにもかかわらず、平気で嘘をついた説明と、うっかり本当のことを書いてしまった説明とで説明の中身が食い違っていることを指摘することで韓国人が「でっちあげ」をしていることを中立の第三者に納得していただけるのではないかと考えています。yabutarouhttps://www.blogger.com/profile/16266569351900219828noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-3313475404409923692009-04-18T21:27:00.000+09:002009-04-18T21:27:00.000+09:00訂正です。
鄭處士述懷歌
引用・翻訳の一番最後の行
鬱陵邑 → 鬱陵郡訂正です。<br /><br />鄭處士述懷歌<br />引用・翻訳の一番最後の行<br /><br />鬱陵邑 → 鬱陵郡Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-60239550370296549942009-04-18T21:17:00.000+09:002009-04-18T21:17:00.000+09:00Yabotarouさま
結局、私たちはかなり似たことを言っているように思います。
すなわち、
①...Yabotarouさま<br /><br />結局、私たちはかなり似たことを言っているように思います。<br /><br />すなわち、<br />① 最近の韓国の2論文<br />『鬱陵島誌』(嶺南大学・民族文化研究所 2007)<br />金基赫・尹用出「朝鮮―日帝強占期 鬱陵島地名の生成と変化」<br />『文化歴史地理』(18巻1号 2006年4月)<br />には、確かに1900年に「竹島 石島」は「北面に属す」と書いてある。<br /><br />② 「石島」が「北面に属す」とすれば、「独島」であるとは考えにくい。<br /><br />③ しかし、これだけでは、1900年に、「石島」が「北面」に属すとは断定できない。同時代の史料に、そのように書いてあってはじめて確認できる。<br /><br />④ その同時代の史料は、あるかもしれないし、ないかもしれない。<br />きっとあるだろう、というのが藪太郎さんで、ないのではないか、というのが私です。<br />しかし、どちらも、100パーセントある、とも、ない、とも言うことはできない。<br /><br />その史料を探してみたい、という思いは、実は、私も同じです。<br /><br /><br />もうひとつ、「でっちあげ」という言葉について。<br />これは「史料操作の不手際(あるいは、杜撰さ)による誤り」という言葉に変えたいと思います。<br />これは、上記のような「同時代の史料がない」場合を前提にしていますが、そうした史料がないにもかかわらず、「石島が北面に属す」と言うのは、「史料操作の杜撰さによる誤り」だということです。<br /><br />韓国側が、「石島は北面に属す」という、自らに圧倒的に不利になる史料を「でっちあげる」ことはありえません。<br /><br /><br /><br /><br />GTOMRさま<br />P52の図11の1892年の資料名は、『鄭處士 述懐歌』です。<br /><br />論文の44p左に<br />『鄭處士述懐歌』は、19世紀末、開拓民として入島した鄭來驥(チョン・レギ)(1835~1896)が、入島後、自身の奇遇の半生と、世話になった人たちへの感謝を子孫たちに伝えるために書いた純ハングル本の歌辞である。慶北大学校の徐元燮(ソ・ウォンソプ)教授が発掘して論文に発表したもので、当時の29か所の地名がハングルで記載されている。<br />とあります。<br /><br />末尾の参考文献<br />徐元燮「鄭處士述懐歌 攷」『語文論叢』4・5 (慶北大学校)1970<br /><br />「處士」は、「官職につかず、隠れ住む人」<br /><br />さすがにGTOMRさんは資料にカンが働くようで、非常に面白い資料のようです。<br /><br />http://100.nate.com/dicsearch/pentry.html?s=K&i=276901&v=45<br /><br />と云うサイトに、以下の記述があります。<br /><br />鄭處士述懷歌<br /><br />1892년(고종 29) 정내기(鄭來驥)가 지은 가사. 1책. 한글 필사본. 울릉도 개척 초기의 풍물과 자신의 일생을 술회한 가사다. 작자가 늙어 병상에 누워 자신의 기구한 일생과 사가(査家 : 사돈댁)의 고마움을 자손에게 알리기 위해 지었다. 형식은 총 300행 617구 4,804자나 되는 장편 가사로, 4•4조와 3•4조가 주조를 이룬다.<br /><br />1892年(高宗 29)、鄭来驥が作った歌辞。1冊。ハングル筆写本。鬱陵島開拓初期の風物と自分の一生を述懐した歌辞である。 作者が老いて病床に横たわり、自分の数奇な一生と、査家(姻戚の実家。この場合、婿の実家)の有難さを子孫に知らせるために書いた。形式は総300行、617句 、4,804字に及ぶ長編の歌辞で、4・4調と 3・4調が主調をなす。<br /><br />내용은 작자가 개척 초기에 섬에 들어와 겪은 갖가지 고생과 고난을 회고한 것이다. 40세 전에 전염병으로 사경을 헤매던 일, 43세에 어린 딸을 두고 조씨 부인(咸安趙氏)이 병사한 일, 진씨 부인(延日陳氏)과 재혼해 두 아들(振儉•原儉)을 얻어 행복한 날을 보내다가 10여 년 만에 재취 부인마저 죽자 몹시 낙담해 넋을 잃었던 일, 참담한 나날을 보내던 중 16세 된 딸을 임유호(任紐鎬)의 2남 영재(榮宰)에게 시집을 보내게 되어 사가가 있는 울릉도에 들어가 살기를 작정한 일을 담고 있다.<br /><br />内容は、作者が開拓初期に島に入って経験した色々の苦労と苦難を回顧したものである。40歳を前に伝染病で死境をさまよった事。43歳の時に、幼い娘を置いて妻の趙氏(咸安趙氏)が病死した事。陳氏(延日陳氏)と再婚して二人の息子(振倹・原倹)を得て幸せな日を過ごしていたが、10余年して再娶した妻も死に、気を落として茫然自失した事。惨憺たる日々を過ごす中 、16歳になった娘を任紐鎬の2男・栄宰に嫁がせ、その実家のある鬱陵島に入って暮すことを決心した事、などが描かれている。<br /><br />그리고 울릉도까지의 뱃길과 북면(北面) 현포(玄圃)에서 천부동(天府洞)•나리동(羅里洞)•모시개〔苧洞〕•도동(道洞)을 거쳐 아록사〔沙洞〕의 사가를 찾아가는 노정(路程), 통구미(通九味)에 농장을 마련해 살며 그 고장의 지세와 산세를 살펴 그 이름을 지은 안착지 통구미에 대한 예찬, 집을 짓고자 서까래를 마련하러 산에 올라갔다가 벼랑에 떨어져 운신도 못하고 몸부림치던 일, 이웃으로 이사와서 집을 완성시켜 준 사가의 온정에 감격한 일 등을 술회하며, 자녀들만은 부귀영화를 누리기를 간절히 기원하고 있다.<br /><br />そして、鬱陵島までの波路と、北面の玄圃から天府洞・羅里洞・モシゲ(苧洞)・道洞を経て、アロクサ〔沙洞〕の婿の実家を尋ねる路程。通九味に農場を作って暮し、その土地の地勢と山勢を観察してそれぞれの名前をつけた、安着地・通九味に対する礼賛。家を建てるために垂木を求めて山に登り、崖に落ちて身動きもできなくて身悶えした事。 隣に引っ越して来て家を完成させてくれた婿の実家の温情に感激した事などを述懐し、子供たちだけは富裕栄華を享受するように、と切に祈っている。<br /><br />이 작품은 울릉도를 소재로 한 가사 중에서 가장 초기의 것으로, 섬 일주의 노정, 갖가지 형태의 바위와 크고 작은 산봉우리, 기이한 풀과 나무 등의 자연을 잘 묘사한 점과 작자의 기구한 일생을 꾸밈없이 술회한 점에서 가사문학상 높이 평가된다.<br /><br />この作品は、鬱陵島を素材にした歌辞の中で一番初期のもので、島一周の路程、いろいろの形態の岩と大小の峰、奇妙な草と木などの自然をよく描いた点と、作者の数奇な一生を率直に述懐した点で、歌辞文学上、高く評価されている。<br /><br />이 자료는 1967년 서원섭(徐元燮)이 경상북도 울릉군 서면 남양리 통구미에 있는 작자의 장손 재철(載喆)의 집에서 발견한 것이다.<br /><br />この資料は、1967年、徐元燮が慶尚北道・鬱陵邑・西面・南陽里・通九味にある作者の長孫、載喆の家で発見したものである。<br /><br />≪참고문헌≫ 延日鄭氏族譜<br />≪참고문헌≫ 萬姓大同譜<br />≪참고문헌≫ 歌辭文學硏究(徐元燮, 螢雪出版社, 1978)<br /><br />≪참고문헌≫ 鄭處士述懷歌攷(徐元燮, 어문논총 4•5합병호, 경북대학교국어국문학과, 1970) <br />≪参考文献≫鄭處士述懷歌攷 (徐元燮,『語文論叢』4・5合併号 慶北大学校 国語国文学科1970)<br /><br />백과사전 카테고리<br />한국민족문화대백과 > 작품 > 문학작품 > 가사<br />百科事典カテゴリー<br />韓国民族文化大百科>作品>文学作品>歌辭<br /><br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />北面、が出てきて、一瞬、ギョっとしましたが、これは、現在の地名を言っているようで、1892年当時から「北面」があったわけではないようです。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-8602400204982185962009-04-18T18:15:00.000+09:002009-04-18T18:15:00.000+09:00 論文「朝鮮―日帝強占期 鬱陵島地名の生成と変化」を取り急ぎ斜め読みして見ましたが、少々奇妙に感じる... 論文「朝鮮―日帝強占期 鬱陵島地名の生成と変化」を取り急ぎ斜め読みして見ましたが、少々奇妙に感じることがあります。いや、それは見解の相違であって、別に奇妙ではないのかも知れませんが。<br /><br /> 次のようなことです。<br /><br /> 前書きでは、日本の挑発によって独島紛争が外交問題となっていると書き、資料として出て来る勅令41号の「石島」は何の説明も無く「=独島」と書いているのに、時代ごとの地名の変遷を解説するこの論文の中心的部分では、「石島は1905年に日本に強奪され、竹島と名付けられた」という類の説明は<br />ないですね。<br /><br /> 朝鮮時代には地名がこう変化したとか、日本は併合後にこんなふうに地名を変えたなどと詳しく紹介しているにもかかわらず、ですよ。<br /><br /> 私には、この論文の著者は、「石島」及び「独島」に関する説明を慎重に避けているように感じられます。それとも資料がないから書いてないだけなのか。「観音島」についても、「今は公式にはカクセソムという」とするだけで、前後の変遷は紹介されていません。<br /><br /> 正確には論文全体を翻訳してじっくり読まなければ判断できないことですが、差し当たりそんな時間はとれそうにないので、一応の印象を書きました。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-47293957705063657492009-04-17T23:01:00.000+09:002009-04-17T23:01:00.000+09:00 matsuさんの御意見の「これらの地名が、非常にバラエティーにとんでいるのに対し、この論文の18... matsuさんの御意見の「これらの地名が、非常にバラエティーにとんでいるのに対し、この論文の18の地名は、1906年以降の、整理されたあとの地名を、1900年に仮託して、ならべているだけのように思えます。」についてですが、<br /><br /><br /> 『舊韓國地方行政區域名稱一覧』(1912年)の凡例では、外国人居留地内の地名と居留民団が付した地名は掲載していないとされています。<br /><br /> 当時の鬱陵島の日本人住民を「居留民団」というのかどうかは良く分かりませんが、公式の地名記録はやはり公式な地名のみを書いたもののようで、警察官が実地に聞いて回った地名と異なるのは有り得ることのように思えます。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-6810952256181851432009-04-17T21:51:00.000+09:002009-04-17T21:51:00.000+09:00matsu さん、
私はちょっと前に、
「キム・ギヒョク、ユン・ヨンチュル両氏が『舊韓國地方行政...matsu さん、<br /><br />私はちょっと前に、<br /><br />「キム・ギヒョク、ユン・ヨンチュル両氏が『舊韓國地方行政區域名稱一覧』・『(新舊対照)朝鮮全道府郡面里洞名稱一覧』の1906年の情報をもとに1900年の南面・北面所属の地名を適当にでっちあげたとmatsu さんはお考えなのですか?」<br /><br />と書きました。これはいうまでもなくなぜmatsu さんが「先生様」、「学者様」、「教授様」などと尊称で呼ばれている人たちを「このでっちあげ野郎が!」と罵ってしまうリスクを冒してまで石島北面所属の記述を書き間違いであると判断しようとしているかが理解できたからです。<br />すなわち1906年の地名と1900年の地名が全く同じであり、そうであるならば別の資料からの情報と考えるのは不自然であり、むしろ1906年の地名から1900年の南面・北面所属情報を「再構成」したと考えるのが適切である、ということですね。<br /><br />これはもっともな意見であり石島北面所属の記述を書き間違いであると判断できる根拠になりうると私も考えます。<br />しかしながら1906年の地名は公式の鬱島郡の記録に書かれていた南面・北面・西面所属の地名である可能性が高いことに留意してください。公式の地名がわずか六年の間に変化しなかったからといっておかしくありません。<br />西面を新設するにあたって18の洞名はそのままに南面・北面所属の洞のいくつかを西面に割り振ったとすれば公式の鬱島郡の記録に書かれた1900年の地名と公式の鬱島郡の記録に書かれた1906年の地名は同じになるはずです。<br /><br />matsu さんは<br /><br />この1900年の欄の地名は、1900年~1906年までの間の地名、という意味だと思いますが、ここにあがっている18の地名は、以前にあげた、1900年の赤塚報告、1902年の通商彙纂、1906年の奥原報告にのっている地名と、あまりにも違いすぎます。<br /><br />とお書きになっています。しかしこれらの地名はかならずしも公式の地名ではないと断言できます。<br /><br />1906年の奥原報告の地図にある地名<br />道洞 沙洞 遇伏洞 新里 中嶺 間嶺 国見崎 通九尾 南陽洞 山土洞 窟岩 水層層 山暮谷 小台霞洞 台霞洞 香木洞 玄浦 新村 光岩 錐山 千年浦 昌洞 天府洞 竹岩 亭石浦 臥達里 乃守田 小亭洞 苧浦 沙工南 羅里洞 俵島 一本立 三本立 觀音崎 竹嶼 カブト岩 タチ岩<br /><br />私の知る限り、このうち少なくとも「俵島 一本立 三本立 觀音崎 カブト岩 タチ岩」は日本人が付けた地名のはずです。<br /><br />そもそも『鬱陵郡誌』の1906年の欄の地名と,同じ1906年の奥原報告の地図にある地名とが全く違っているわけですから、『鬱陵郡誌』の1900年の欄の地名と1900年の赤塚報告、1902年の通商彙纂、1906年の奥原報告にのっている地名が違っていたとしてもおかしくはないのではないでしょうか。<br /><br />私はmatsu さんと同じ理由で石島北面所属の記述が書き間違いである可能性も相当あると思いますが絶対そうであるとは思いません。<br />これは竹島問題全般に言えることですが、そもそも重要なのは誰がどう思うかではなくある主張があるとしてその主張が正しいあるいは正しくないと客観的に検証可能かどうかであると私は考えます。<br />今回のケースは明らかに韓国人学者の不手際であり、韓国人学者が石島北面所属の記述を書き間違いであると主張するのであれば、韓国人学者の側にそれを客観的に証明する責任があります。要するに「自分の××の××は自分で拭け」ということです。yabutarouhttps://www.blogger.com/profile/16266569351900219828noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-66025594659751677832009-04-17T03:01:00.000+09:002009-04-17T03:01:00.000+09:00たぶん、独島学会のHWPからの写しだと思うのですが、1900年06月の禹用鼎関連のページにこのような...たぶん、独島学会のHWPからの写しだと思うのですが、1900年06月の禹用鼎関連のページにこのようなものがあります。<br /><br />報告書 後錄 (7) <br />一. 昨年十月一日 俄國兵艦一隻 來泊于南陽洞浦口 將官一員 通事一人 兵丁七十名 下陸歷覽山川 亦爲圖形而槻木一立 買得於日人 給價七十五兩 留連八日別無動靜 而以明年三月 更來之意 爲約而去. <br /><br />戶口成冊 一件<br />起墾成冊 一件<br />日人結幕人口成冊 一件<br />日人犯斫槻木成冊 一件<br />本島人犯斫成冊 一件<br />監務報告 一件<br /><br />本島等狀 一件<br />日人事實 一件<br /><br />いくつか成冊がありますが、此の中に南北二面ヒントがあるかはわかりませんが、一応書いておきます。GTOMRhttps://www.blogger.com/profile/06881539471132140299noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-7692879735147036262009-04-17T02:47:00.001+09:002009-04-17T02:47:00.001+09:00藪太郎様
茶亜弥様
有難うございました。
てっきり”字”という行政単位があるのかな、勘違いしていま...藪太郎様<br />茶亜弥様<br /><br />有難うございました。<br />てっきり”字”という行政単位があるのかな、勘違いしていました。有難うございます。<br /><br />鬱島/北面/南面で<A HREF="http://search.naver.com/search.naver?where=nexearch&query=%EA%A6%D3%F6%A1%A1%DD%C1%D8%FC%A1%A1%D1%F5%D8%FC&x=0&y=0&sm=top_hty&fbm=1" REL="nofollow">検索をかけると</A>、<br /><A HREF="http://sangjoon.tistory.com/48" REL="nofollow">1.</A><A HREF="http://blog.naver.com/blossom2u?Redirect=Log&logNo=60060065860" REL="nofollow">2.</A><A HREF="http://blog.naver.com/kybin21?Redirect=Log&logNo=120011158203" REL="nofollow">3.</A>などなど、多数がでてきます。韓国人はCopy&Pasteが得意なのですが、<br />”3”にはCopy Pasteをどこからしたのかが書いてあったのですが、どうやら<A HREF="http://dokdomuseum.go.kr/pop_sch.html?syear=2005&smonth=10&sday=27" REL="nofollow">dokdo museumのサイトにあった説明</A>である事がわかります。<br />こちらには、「図鑑を軍需で改正したので, 現任図鑑梨リレー(〓季周)が招待軍需になったし, 鬱陵邑を 南面と 北面で分けるによって独島は鬱陵邑南面に属するようになる.」(機械翻訳)と書いてあります。<br />此処には、禹用鼎? 鬱島記? ???, 高宗実録40, 官報 ?1716? 光武 4年 10月 27日. <br />とソースが書いてあるのですが、鬱島記には記載が見られません。<br />高宗実録40とか 官報 ?1716? 光武 4年 10月 27日には何か書いてあるのでしょうか?. <br /><br />Matsu様Kaneganese様Pdf有難うございます。<br />P51の図10の1900年の2面18洞のソース<br />P52の図11の1892年の資料名<br />に興味があります。GTOMRhttps://www.blogger.com/profile/06881539471132140299noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-46671401448542682872009-04-17T02:47:00.000+09:002009-04-17T02:47:00.000+09:00This comment has been removed by the author.GTOMRhttps://www.blogger.com/profile/06881539471132140299noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-6601757500345368812009-04-17T00:07:00.000+09:002009-04-17T00:07:00.000+09:00(管轄)以降を南面でも北面でもない鬱陵島全体の管轄、という意味で記述するなら、行を変えているはずです...(管轄)以降を南面でも北面でもない鬱陵島全体の管轄、という意味で記述するなら、行を変えているはずですが、鶴圃洞に続けて列記しているのでこの表を見る限り北面所属の2島としか読めませんね。ミスプリントで無い限り。「 鬱陵郡誌 」の著者もそう理解して新たにまとめなおした際に北面所属の地名として分類したのでしょう。この誤記の連鎖、何かを想起させますね。<br /><br />さらに、この2006年の論文の著者は「竹島、石島」と間に読点を入れてしまっています。もしこれが勅令41号を元にしたものであれば、原文には「竹島石島」とあるので、恣意的な歪曲、もしくは改竄との誹りを免れないような行為だと思います。出典や引用元にに勅令41号が無いとすれば、やはりそれ以外の別のソースがあったのでしょうか?Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-62598361434204699782009-04-17T00:05:00.000+09:002009-04-17T00:05:00.000+09:00Kaneganeseさん
いろいろありがとうございます。著作権の問題を考えると全文掲載は難しいで...Kaneganeseさん <br /><br />いろいろありがとうございます。著作権の問題を考えると全文掲載は難しいですね。<br />この論文自体が、朝鮮時代から日本の植民地時代にかけての鬱陵島の地名、に焦点を当てた論文なので、このブログの皆さんには興味があるのではないかと思って、思わず全文掲載してください、と言ってしまいました。<br />とりあえず、必要なのは冒頭の著者の紹介のある部分でしょうか。<br />仕事で帰宅が夜になり、反応が遅くなってすみません。<br /><br />キム・ギヒョク、ユン・ヨンチュル氏の漢字は、釜山大学のHPを見ると<br />金基赫、尹用出だったので、これからは、こちらを使いたいと思います。<br />金基赫氏は、釜山大学校 師範大学(教育学部)地理教育科教授。<br />尹用出氏は、同じく師範大学(教育学部)歴史教育科教授です。<br /><br />地名についての実証的研究としては、資料にのっとって地道に論じている論文だと思います。しかし、こと独島のこととなると、『海東地図』の于山島を、まったく何の疑問も無く、于山島(独島)としていたり(41p左)、「鬱陵島図形」の「大于島」「小于島」を、独島の東島、西島だとしていたり(同じく41p右)、地理学専攻の大学教授が、しかも地理学「教育」専攻の大学教授が、大真面目にこのように論じているのを見ると、まず、この人たちを説得して変えていかなければいけないのかなあ、としばし思ってしまいます。<br /><br />Yabutarouさん、<br /><br />1900年の欄に載っている地名は、やはり、とてもあやしいと思います。<br />ここに書いてある18の地名は、1906年のものと、全く同じです。1906年の「西面」にある、台霞洞と鶴圃洞を「北面」に、残りを「南面」にただ割り振っているだけです。<br />そんなことがありうるのでしょうか?<br /><br />1900年 <br />南面 道洞 沙洞 新興洞 玉泉洞 長興洞 苧洞 南陽洞 石門洞 通九味洞 南西洞 龜岩洞<br />北面 羅重洞(羅里洞の誤記)石浦洞 天府洞 平里洞 玄圃洞 台霞洞(郡廰)鶴圃洞 (管轄)竹島, 石島<br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />1906年 <br />南面 道洞 沙洞 新興洞 玉泉洞 長興洞 苧洞<br />西面 龜岩洞 南西洞 南陽洞 石門洞 台霞洞 通九味洞 鶴圃洞<br />北面 羅重洞(羅里洞の誤記) 石浦洞 天府洞 平里洞 玄圃洞<br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br /><br />この1900年の欄の地名は、1900年~1906年までの間の地名、という意味だと思いますが、ここにあがっている18の地名は、以前にあげた、1900年の赤塚報告、1902年の通商彙纂、1906年の奥原報告にのっている地名と、あまりにも違いすぎます。<br /><br />1900年 赤塚報告の地図にある地名<br />道洞 沙洞 牛膓洞 新里 中嶺 邊嶺 通龜尾 南陽洞 窟岩 山蕗谷 水層層 鶴浦洞 <br />黃土九味 香木洞 玄浦 新村 光岩 錐山 昌洞 天府洞 竹岩洞 亭石浦 臥達失 <br />乃守田 古苧浦 苧浦 沙公南 羅里洞 空島 三本立 島牧 觀音崎 竹島<br /><br />1902年の通商彙纂にのっている地名<br />道洞 遍伏洞 中嶺 通亀尾 窟巖 山幕谷 香木洞 新村 錐山 千年浦 天府洞 亭石洞 乃守田 砂工南 沙洞 新里 間嶺 南陽洞 水層々 台霞洞 玄浦 光岩 羅里洞 昌洞 竹岩 臥達里 苧洞 <br /><br />1906年の奥原報告の地図にある地名<br />道洞 沙洞 遇伏洞 新里 中嶺 間嶺 国見崎 通九尾 南陽洞 山土洞 窟岩 水層層 山暮谷 小台霞洞 台霞洞 香木洞 玄浦 新村 光岩 錐山 千年浦 昌洞 天府洞 竹岩 亭石浦 臥達里 乃守田 小亭洞 苧浦 沙工南 羅里洞 俵島 一本立 三本立 觀音崎 竹嶼 カブト岩 タチ岩<br /><br />これらの地名が、非常にバラエティーにとんでいるのに対し、この論文の18の地名は、<br />1906年以降の、整理されたあとの地名を、1900年に仮託して、ならべているだけのように思えます。<br /><br />私は、どんどん、「でっちあげ説」に近づいています。<br /><br />・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />すなわち、実際に1900年に使われていた地名をもとにした「原史料X」があって、そこに「竹島 石島」が「北面」に属している、という記述があれば、勅令41号の直後、「竹島 石島」が北面に属していた、と言えると思いますが、その「原史料X」の存在は、韓国側が「隠している」ということではなくて、実は存在しない、まぼろしなのではないかと私は思います。<br /><br />そうは言いながら、やはり、金基赫・尹用出両教授に「聞いてみる」のは、いいことかもしれません。そこから、「対話」が、もしかしたら、始まるかもしれません。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-22808781904665517452009-04-16T22:40:00.000+09:002009-04-16T22:40:00.000+09:00 問題の「(管轄)竹島、石島」の記述については、表全体の構成から見て、藪太郎さんが言うように、著者は... 問題の「(管轄)竹島、石島」の記述については、表全体の構成から見て、藪太郎さんが言うように、著者は明らかに北面の項目として位置づけていると見ます。<br />http://farm4.static.flickr.com/3660/3443047531<br /><br /> で、その出典ですが、この表の部分では「新旧対照朝鮮全道府郡面里洞名称一覧」と「舊韓國地方行政區域名稱一覽」しか表示されていないわけですが、論文の最後に参考文献がまとめて挙げてあるので、その中に南面北面の根拠となるものがあるのかも知れません。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-6655412507298098212009-04-16T22:03:00.000+09:002009-04-16T22:03:00.000+09:00kaneganeseさん、
資料は届きましたが・・・・・・最近新しい資料が多くて消化不良です(...kaneganeseさん、<br /><br /> 資料は届きましたが・・・・・・最近新しい資料が多くて消化不良です(笑)。ゆっくり読むことにします。ありがとう。<br /><br /><br /><br /><br />GTOMRさん、<br /><br />what kind of 字?という疑問への答になっているのかどうか分かりませんが、第三条は、<br /><br />第三條 開國五百四年八月十六日付け官報中の官廳事項欄內の「鬱陵島」以下の十九文字を削除し、開國五百五年勅令第三十六號第五條の中の「江原道二十六郡」を「江原道二十七郡」に改正し、安峽郡の次に「鬱島郡」の三文字を加える。<br /><br />ということだと思います。つまり、鬱陵島を鬱島郡に格上げしたことに伴って他の法令を改正する必要が生じたので、この第三条で改正したもののようです。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-77968982125623991802009-04-16T21:59:00.000+09:002009-04-16T21:59:00.000+09:00Kaneganeseさんpdf届きました。ありがとうございます。
これを見てはっきりわかることは、『...Kaneganeseさんpdf届きました。ありがとうございます。<br />これを見てはっきりわかることは、『鬱陵郡誌』の編者は「無実」であるということです。<br />南面の地名と北面の地名が段落分けして記述されていて、北面地名と同じ行から続いて(管轄)竹島 石島と書かれています。<br />これでは誰が読んでも石島が北面所属であるとしか理解できません。<br /><br /><br />GTOMR さん<br /><br />I have a question about Imperial Edict 41.article 3.<br />第三條 開國五百四年八月十六日官報中 官廳事項欄內 鬱陵島以下十九字 刪去고 開國五百五年勅令第三十六號第五條江原道二十六郡의 六字 七字로 改正고 安峽郡下에 鬱島郡三字 添入 事.<br /><br />what kind of 字?<br /><br /><br />字はそのまま「字」という意味ではないでしょうか。「鬱陵島以下十九字 刪去」は「鬱」から続いて十九番目までの文字を削除するという意味で、「安峽郡下에 鬱島郡三字 添入」は「安峽郡」の次に「鬱」「島」「郡」の三文字を加えるという意味だと思います。yabutarouhttps://www.blogger.com/profile/16266569351900219828noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-90103139096225690272009-04-16T21:38:00.000+09:002009-04-16T21:38:00.000+09:00matsuさん
まず「1900年の南面・北面所属の地名を適当にでっちあげた」場合、
キム・ギヒョク...matsuさん<br /><br />まず「1900年の南面・北面所属の地名を適当にでっちあげた」場合、<br />キム・ギヒョク、ユン・ヨンチュル両氏は論文に根拠のないことを書いたことになり明らかな不正行為です。<br />「適当にでっちあげた」のではない場合、<br />キム・ギヒョク、ユン・ヨンチュル両氏は論文に1900年の南面・北面所属の地名の典拠を明示していなかったことになりやはり不正行為です。<br /><br />結局のところキム・ギヒョク、ユン・ヨンチュル両氏の記述に何らかの不正行為があったことには間違いなさそうです。<br />私は両氏の論文に石島が北面所属であるとはっきり書いてある以上、石島が北面所属である可能性はやはりないわけではないと考えます。<br />ただ「でっちあげた」とか「わざと隠した」とかいう陰謀論のごとき言説をネットに書き込んだままにしておくといたずらに世論を煽ってしまう危険があるのも事実です。<br />なので私もmatsuさんと同じく「キム・ギヒョク、ユン・ヨンチュル両氏」やほかの韓国人の学者に直接問い合わせて弁明の機会を与えてみるのがよいと考えます。<br />問い合わせの結果不誠実の対応をされてかえって世論を煽ってしまうかもしれませんが、そこまでは私の知ったこっちゃありません。。<br />もし南面・北面所属の地名の典拠が明らかになって、その典拠からは石島が北面所属であるということが判断できないことが判明すれば、「石島北面所属」の記述はただの書き間違いであると証明できるでしょう。yabutarouhttps://www.blogger.com/profile/16266569351900219828noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-28055036535910042472009-04-16T17:11:00.000+09:002009-04-16T17:11:00.000+09:00I dont know from which HWP file I reserved,,, but ...I dont know from which HWP file I reserved,,, but there are record as follows(undated? related to U Jongtong report 1900) <br />訓令 十三洞<br /> <br />本官이 來此數日에 詳察島中 前後事實 則日人之違犯章程과 侵虐居民은 已無可論 而亦不無島民之符同締結과 興訛作奸之所致也라. 言念此에 尤切痛歎이기로 玆以今飭노니 從玆以往으로 島民中 若或有符同犯斫이거나 嗾囑起鬧이거나 爲其使喚야 引鉅運木等 雇役之端이면 一從本島監指摘馳報야 卽爲移囚于釜山警務署야 分等嚴懲을 斷不饒貸矣리니 愓念擧行야 無至抵罪 爲宜事.<br /> <br />再此亦中 今此令飭 各其洞頭民 這這曉諭 于該洞民人等處 俾無一民不聞不知之弊 爲宜事.<br /><br />Anyone know where is original record above?GTOMRhttps://www.blogger.com/profile/06881539471132140299noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-77149877922940208792009-04-16T17:06:00.000+09:002009-04-16T17:06:00.000+09:00I have a question about Imperial Edict 41.article ...I have a question about Imperial Edict 41.article 3.<br />第三條 開國五百四年八月十六日官報中 官廳事項欄內 鬱陵島以下<B>十九字</B> 刪去고 開國五百五年勅令第三十六號第五條江原道二十六郡의 六字 七字로 改正고 安峽郡下에 鬱島郡<B>三字</B> 添入 事.<br /><br />what kind of 字?GTOMRhttps://www.blogger.com/profile/06881539471132140299noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-54853530222697123562009-04-16T14:43:00.000+09:002009-04-16T14:43:00.000+09:00matsuさん、皆さん
今、該当論文をpdfにしたのですが、論部全体を誰でもダウンロードできる状態...matsuさん、皆さん<br /><br />今、該当論文をpdfにしたのですが、論部全体を誰でもダウンロードできる状態にすると、著作権がどうなるかよくわからないので、とりあえずchaamieyさん、yabutarouさん、GTOMRさんとあと関係者にのみ送付します。もしどなたかお読みになりたい方は、メールアドレスを教えてくだされば、お送りします。<br /><br />matsuさん<br /><br />もし議論で必要な箇所がありましたら、個別に画像をアップロードしますので、指示してください。Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-61571649093191522582009-04-16T07:42:00.000+09:002009-04-16T07:42:00.000+09:00はい。
「この文章は本来、
1900年 2面18か洞
(江原道鬱島郡)
南面...はい。<br /><br />「この文章は本来、<br /><br />1900年 2面18か洞 <br />(江原道鬱島郡)<br /><br /> 南面 道洞 沙洞 新興洞 玉泉洞 長興洞 苧洞 南陽洞 石門洞 通九味洞 南西洞 龜岩洞<br /><br /> 北面 羅重洞(羅里洞の誤記)石浦洞 天府洞 平里洞 玄圃洞 台霞洞(郡廰)鶴圃洞 <br /><br /> (管轄)竹島, 石島<br /><br />とすべきであって竹島, 石島は南面・北面のどちらでもなく鬱島郡に直接管轄されている。南面・北面の地名の情報は本来「鶴圃洞」までで終わっているはずが、勅令41号の記述からさらに竹島, 石島を書き足したものであって、それを『鬱陵郡誌』の著者が竹島, 石島も北面所属であると誤解した」<br /><br />と、考えています。<br /><br /><br />一方、<br /><br />「キム・ギヒョク、ユン・ヨンチュル両氏が『舊韓國地方行政區域名稱一覧』・『(新舊対照)朝鮮全道府郡面里洞名稱一覧』の1906年の情報をもとに1900年の南面・北面所属の地名を適当にでっちあげた」<br /><br />かどうかは、よくわかりません。<br /><br />「適当にでっちあげた」のではない場合、<br />北面、南面にそれぞれの地名を配置する根拠となる資料が、<br />『舊韓國地方行政區域名稱一覧』・『(新舊対照)朝鮮全道府郡面里洞名稱一覧』のほかに存在することになります。<br /><br />しかし、そんな資料は存在しないのではないか、というのが、今の私の予測です。<br />でも、もし、そういう資料が出てきたら、「ごめんなさい、間違えました」と、すぐに謝っちゃいます。<br /><br /><br />こうした資料が、もし存在して、しかも、さらに、その中に「竹島, 石島」が北面に所属する、と書いてあれば、竹島問題にとって、とてつもなく大きな一次史料です。それこそが、今回の藪太郎さんの問題提起の根本だろうと思います。<br /><br />本気で、『鬱陵郡誌』(2007)の編者である「嶺南大学民族文化研究所」と、<br />「キム・ギヒョク、ユン・ヨンチュル両氏」に聞いてみる価値があると思います。<br /><br />「キム・ギヒョク Ki-Hyuk Kim」「ユン・ヨンチュル Yong-Chul Yoon」両氏は、ともに釜山大学の教授です。この論文の冒頭にあります。最近、大学教授には、直通のメールがあるはずです。<br /><br />Kaneganeseさん、もし容量に余裕があれば、この論文全文をアップロードしていただけないでしょうか?Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-42155560460992774352009-04-16T01:43:00.000+09:002009-04-16T01:43:00.000+09:00matsu さんありがとうございます。これは大発見ですね。
1900年 ・1906年 ・1914年 ...matsu さんありがとうございます。これは大発見ですね。<br />1900年 ・1906年 ・1914年 の地名がキム・ギヒョク、ユン・ヨンチュル「朝鮮―日帝強占期 鬱陵島地名の生成と変化」からの引用であることは間違いないようです。<br /><br />1900年 2面18か洞 <br />(江原道鬱島郡)<br /><br />南面 道洞 沙洞 新興洞 玉泉洞 長興洞 苧洞 南陽洞 石門洞 通九味洞 南西洞 龜岩洞<br /><br />北面 羅重洞(羅里洞の誤記)石浦洞 天府洞 平里洞 玄圃洞 台霞洞(郡廰)鶴圃洞 (管轄)竹島, 石島<br /><br />この表現では鬱島郡の北面に竹島, 石島が管轄されているように読めます。しかしながらmatsu さんの文章に「このような誤解を生む記述が生まれたものと思われます。」とあるのをみると、matsu さんはこの文章は本来、<br /><br />1900年 2面18か洞 <br />(江原道鬱島郡)<br /><br /> 南面 道洞 沙洞 新興洞 玉泉洞 長興洞 苧洞 南陽洞 石門洞 通九味洞 南西洞 龜岩洞<br /><br /> 北面 羅重洞(羅里洞の誤記)石浦洞 天府洞 平里洞 玄圃洞 台霞洞(郡廰)鶴圃洞 <br /><br /> (管轄)竹島, 石島<br /><br />とすべきであって竹島, 石島は南面・北面のどちらでもなく鬱島郡に直接管轄されている。南面・北面の地名の情報は本来「鶴圃洞」までで終わっているはずが、勅令41号の記述からさらに竹島, 石島を書き足したものであって、それを『鬱陵郡誌』の著者が竹島, 石島も北面所属であると誤解した、とお考えなのでしょうか。<br /><br />むう。。これは厄介な話になってきました。私の解釈は『舊韓國地方行政區域名稱一覧』・『(新舊対照)朝鮮全道府郡面里洞名稱一覧』のどちらにも1900年の地名がない以上、1900年の地名は別の資料からの情報であってその資料に竹島, 石島も北面所属とあったのであろう、というものでした。<br />matsu さんは別の資料の存在を否定されているのでしょうか?それでは1900年の南面・北面の地名の情報がどこから来たのかわかりません。<br />キム・ギヒョク、ユン・ヨンチュル両氏が『舊韓國地方行政區域名稱一覧』・『(新舊対照)朝鮮全道府郡面里洞名稱一覧』の1906年の情報をもとに1900年の南面・北面所属の地名を適当にでっちあげたとmatsu さんはお考えなのですか?<br />まあ、韓国人学者ならやりかねませんが。。。yabutarouhttps://www.blogger.com/profile/16266569351900219828noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-18331796283978267132009-04-15T23:37:00.000+09:002009-04-15T23:37:00.000+09:00「江原道史」というような資料の1900年の項を見てみれば何か書いてあるかも?「江原道史」というような資料の1900年の項を見てみれば何か書いてあるかも?Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-54925071691070234682009-04-15T23:25:00.000+09:002009-04-15T23:25:00.000+09:00皆さん、どうも。
matsuさん、辿り着きましたね。すばらしい。
この資料からは、1900年...皆さん、どうも。<br /><br />matsuさん、辿り着きましたね。すばらしい。<br /><br /><br /> この資料からは、1900年当時の鬱陵島を北面と南面に区分する何らかの規定と竹島、石島を北面の管轄とする何らかの規定が存在していたことが推定できます。 <br /><br /> その規定を突き止められればもちろん万全ですが、そうでなくても、この資料によって、韓国側は、東南東にあるという石島をなぜ北面の管轄としたのか説明を求められることになります。<br /><br /> なお、この資料の表の下にある解説文では石島に(ドクト)などという注釈がついていますが、これは2006年時点での筆者の意見なので判断材料にはならないですね。Anonymousnoreply@blogger.com