tag:blogger.com,1999:blog-26948035.post1943141023802234206..comments2024-01-26T17:48:29.804+09:00Comments on Dokdo-or-Takeshima?: The 25th column “Seeking Truth Based Solely on Facts(実事求是)”Gerry Bevershttp://www.blogger.com/profile/14311939520870098017noreply@blogger.comBlogger16125tag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-75419200181237601102010-05-22T12:24:10.527+09:002010-05-22T12:24:10.527+09:00 いろいろな可能性を考えることはできますが、沈興沢は結局のところ1906年に「本郡所属独島が・・・・... いろいろな可能性を考えることはできますが、沈興沢は結局のところ1906年に「本郡所属独島が・・・・・」と報告していますから、竹島の日本編入を知ってとは差し当たり考えにくいかと思いますねえ。776人という正確な数字は軍の発表によるもので、その数字が各方面に伝わったのではないでしょうか。<br /><br /> それはともかく、竹島の日本編入が当時の鬱陵島民にどのように伝わっていたかは重要なテーマですね。<br /><br /><br />2010.05.22Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-60440120522495498062010-05-22T03:09:25.131+09:002010-05-22T03:09:25.131+09:00軍卒774人に、艦長と副艦長各1名を足すと776人になります。
司馬遼太郎が書いている「残存乗員七...軍卒774人に、艦長と副艦長各1名を足すと776人になります。<br /><br />司馬遼太郎が書いている「残存乗員七百七十余人が捕虜となる」という数字は、これと全く一致しています。<br /><br />司馬遼太郎が、何によってこの小説のこの部分を書いているかはわかりませんが、おそらく、日本の海軍側の資料によっているのでしょう。<br /><br />ということは、日本側と韓国側とが、「残存乗員七百七十余人が上陸、捕虜となる」という同じ数字を共有していたことになります。<br /><br />やはり、当時、鬱陵島の日本側の官憲と鬱陵島の郡の役人とは、それなりに緊密な連絡があったと見なければならないのではないでしょうか。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-57809730197277107002010-05-22T01:54:18.831+09:002010-05-22T01:54:18.831+09:00漁業鑑札が出ているわけですから、おそらく、日本漁船に乗って竹島に渡航していた朝鮮人*はやはりそのこと...漁業鑑札が出ているわけですから、おそらく、日本漁船に乗って竹島に渡航していた朝鮮人*はやはりそのことを知っていたのではないかとも思います。GTOMRhttps://www.blogger.com/profile/06881539471132140299noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-91888483728471973992010-05-22T01:15:41.481+09:002010-05-22T01:15:41.481+09:00「鬱陵島の郡守・沈興澤は、1906年に島根県一行が鬱陵島を訪れる以前から、日本の竹島領土編入を良く知...「鬱陵島の郡守・沈興澤は、1906年に島根県一行が鬱陵島を訪れる以前から、日本の竹島領土編入を良く知っていたのではないか」とのmatsuさんの仮説、大変興味深く読みました。この仮説が妥当とされるなら韓国側が領有根拠として示している公文書「江原道観察使署理春川郡守李明來報告書号外」が無価値化することでしょう。<br />2010.5.22Makotohttps://www.blogger.com/profile/02528932854910517750noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-27732073629673585102010-05-20T11:25:52.210+09:002010-05-20T11:25:52.210+09:00旧暦4月25日は、新暦5月29日ですね。
http://koyomi8.com/
日本海海戦におけ...旧暦4月25日は、新暦5月29日ですね。<br />http://koyomi8.com/<br /><br />日本海海戦における「ドミトリー・ドンスコイ」乗員の捕獲については、<br />『坂の上の雲(八)』 司馬遼太郎 文春文庫p257~258<br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />「二十九日天明、鬱陵島において装甲巡洋艦ドンスコイが日本の小艦艇群と奮戦のすえ自沈、残存乗員七百七十余人が上陸、捕虜となる」<br />と、その海図に書き入れたとき、二十七日以来、日本海の広大な海域を舞台にして争われた二つの帝国の海上戦はその最後の幕をとじた。<br />ドンスコイの装甲は強力なものであった。日本の小さな巡洋艦や駆逐艦の砲弾は無数にこの艦に集中したが、それらはこの艦の汽罐と舵機を破損させたのみで、装甲帯そのものは小石を投げられた程度といっていいほどにびくともしなかった。結局、この艦は二十七日午後二時以来奮戦四十時間という記録をのこし、みずからキングストン弁をひらいて沈没した。<br />その電報が入ると、真之は海図に、<br />「ドミトリー・ドンスコイ」<br />と、その正称を入れ、自沈場所に×印をし、日時を記入して顔をあげ、<br />「どうやら終わりましたな」<br />と、加藤参謀長にいった。<br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2008/09/1905-may-29-30-june-5.html<br />官報号外 明治三十八年五月三十日<br />戦報<br />日本海海戦続報 日本海海戦ニ関シ其後接手シタル連合艦隊司令長官東郷平八郎ノ報告左ノ如シ(海軍省)<br />其四 今三十日午後著電<br />五月二十七日午後ヨリ翌二十八日ニ亙リ沖ノ島附近ヨリ鬱陵島附近マテノ海戦ヲ「日本海ノ海戦」ト呼称ス<br />其五 同上<br />連合艦隊ノ大部ハ前ニ電報シタル如ク一昨二十八日午後「リアンコルド」岩附近ニ於テ敗残敵艦隊ノ主力ヲ包囲攻撃シテ其降伏ヲ受ケ追撃ヲ中止シ之ガ處分ニ従事中午後三時頃更ニ南西方面ニ敵艦「アドミラル、ウシヤーコフ」ノ北走スルヲ発見シ盤手、八雲ハ直ニ之ヲ追撃シ先ツ降伏ヲ勧告セシモ敵之ニ應セサリシ故午後六時過己ムヲ得ス之ヲ撃沈シ其生存者三百余名ヲ救助・収容セリ又午後五時北西ニ敵艦「ヅミトリー、ドンスコイ」ヲ発見シ第四戦隊及第二駆逐隊之ニ追及シ日没後ニ至ルマテ猛烈ニ砲撃セシモ撃沈スルニ至ラス夜ニ入リ第二駆逐隊モ之ヲ襲撃シ其結果不明ナリシカ昨朝ニ至リ第二駆逐隊ハ「ヅミトリー、ドンスコイ」ノ鬱陵島ノ東南岸ニ擱座セルヲ発見シ目下春日ト共ニ其處分中ナリ(以下略)<br />・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・<br />ドミトリー・ドンスコイ (Дмитрий Донской, Dmitri Donskoi) はロシア帝国海軍の舷側砲装甲艦<br />1905年5月28日、日本海海戦において撃沈<br /><br />http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%9F%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%82%A4_(%E8%A3%85%E7%94%B2%E8%89%A6)<br /><br />また、<br />http://battleships.ru/warships/dmitriy_donskoy_1880_rsmalkov/ship_rsmalkov.htmlAnonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-48218906088148343872010-05-19T11:28:27.960+09:002010-05-19T11:28:27.960+09:00Chaamieyさん
私は、鬱陵島の郡守・沈興澤は、1906年に島根県一行が鬱陵島を訪れる以前から...Chaamieyさん<br /><br />私は、鬱陵島の郡守・沈興澤は、1906年に島根県一行が鬱陵島を訪れる以前から、日本の竹島領土編入を良く知っていたのではないか、という説に立っています。<br /><br />当時、鬱陵島には日本人がたくさん住んでいました。とくに沈興澤の郡役所のあった道洞に日本人は多くいました。また日本の警察官駐在所も道洞にありました。さらにいえば、鬱陵島に派遣されていた日本人警察官は、朝鮮語ができました。両者は、いわば両国の行政機関の最前線として、お互いに連絡を取りあいながら、「鬱陵島統治」を半ば協同して行っていたのではないかと思います。<br /><br />竹島の領土編入が、決して「秘密」ではなかったことは、隠岐新報や山陰新聞に記事が出ていることで明らかです。また、当時、鬱陵島は、浜田など日本側の港との船便もありましたし、鬱陵島には郵便局もありました。当然、日本人社会には、「竹島の領土編入」のニュースははやくから入っていたと思います。<br />そして、そのニュースは、ごく自然に、鬱陵島の韓国側の行政トップである沈興澤の耳にも入っていたはずです。<br /><br />もっと早い段階で沈興澤はそのニュースを報告してもよさそうですが、1906年の島根県一行の来島まで報告をあげなかった。<br />それは、報告すべき重大事件とは考えていなかったからだ、と思います。「竹島=独島」が勅令41号に言う「石島」でないとしたら、当然のことです。<br /><br />それが1906年になって、なぜ急に報告をあげたのか?<br />それは、日本人一行が大挙して「鬱陵島を調査に来た」と沈興澤が考えたからだと思います。やってきた日本人一行の、「職種」と名前を、いちいち克明に報告書に記していることがその現われだと思います。当時、日本側が、鬱陵島に関心を示していたのも事実です。こうした流れの中で、沈興澤は、重要な事件として島根県一行の鬱陵島訪問を報告にあげた。その日本人側の来島の理由として、「竹島が日本領土になったので、その視察のためにやってきた」という日本側の来島意図を、そのままに上部に報告したのが、沈興澤報告の文言になって残っているのだろうと思います。<br /><br />こうした流れの中で考える時、上記の記事で、ロシア艦乗員の鬱陵島上陸があって、日本側が彼らを連れて行ったときに、日本の警察と、韓国側の郡の役人が、共同して対応に当たっていることを示す一つの証拠としてこの事件を見ることが出来るのではないかと思うのです。<br /><br />「深夜に到って一隻の大兵艦が 島の前に来て碇泊し、乗員が順次上陸して来た。夜の闇のために日本かロシアか分からなかったが、近づいて見るとロシア兵であったとの急報が届いたので、現地に行き事情を確認しようとしたが言葉が通じず、要領を得なかった。<br />翌日明け方にロシア兵が多数上陸した後にそのロシア艦は前洋を少し後退して自沈し、陸に上がった艦長一名、副艦長一名、軍卒774人は白旗を揚げて降服の意を表していたが、同日巳時ごろに日本の兵艦一隻が苧洞に来て、降服したロシア兵たちを乗せて去って行ったという。」<br /><br />「同日(旧暦4月26日)巳時ごろ(午前10時ごろ)に日本の兵艦一隻が苧洞に来て、」というくだりに、その連絡対応にあたって、鬱陵島在住の日本人警察官が働いていたこともうかがわせます。<br /><br />また、この「軍卒744人」、というのは、誰かが、正確に数えているわけです。たぶん日本側ではないかと思いますが、それが韓国側の記録としても残っていることを示しているわけで、当時の鬱陵島における日本側と韓国側の官憲の関係を示唆するのではないかと思います。<br /><br />またこの事件については、当然、鬱陵島の日韓の島民同士のあいだでも大いに話題になったでしょう。このときに戦闘が行われた地点である竹島についても話題になり、さらには日本編入についても話題になっていたのではないか、とも思います。<br /><br />その意味で、竹島問題にとっても、充分に意味のある資料だと思います。Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-80886095139306638922010-05-18T23:57:45.608+09:002010-05-18T23:57:45.608+09:00Kaneganeseさん、英訳があるんですか。それはありがたい。英語も不得手ではありますが、韓国語よ...Kaneganeseさん、英訳があるんですか。それはありがたい。英語も不得手ではありますが、韓国語よりはましです。<br /><br />chaamieyさん、沈興沢はじめ前任者らの名前をキーにして検索してみる価値はあると思います。空振りもするでしょうが、「独島は韓国領土」だなんて言っていなかったことの証は立てられるのではないでしょうか。「南東沖かすかに見える島は日本領だ」なんて言っていたりして……。<br /><br />2010.5.18Makotohttps://www.blogger.com/profile/02528932854910517750noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-8075556957728248532010-05-18T07:36:05.330+09:002010-05-18T07:36:05.330+09:00 上の鬱島公報の記事は沈興沢の名前があったので翻訳して見たのですが、竹島問題にはさしたる意味はないよ... 上の鬱島公報の記事は沈興沢の名前があったので翻訳して見たのですが、竹島問題にはさしたる意味はないようです。<br /><br /> 記事の日付は太陽暦で1905年8月10日ですが、記事説明書には陰暦では7月10日と書いてあるので、2ヵ月半前のできごとの報告であるということになります。<br /><br /> この事件は次の記事と同じものでしょう。<br /><br /><br /> 日露海戦時代に残された史談数種 <br /> 二十四年前の乙巳五月、日露海戦の当時に○○○○○○完全な内海を○○○○この中に入って来た当代有名なロシア・バルチック艦隊の「ドミトリー・ドンスコイ号」(6,200トン)は○○○○○○鬱陵島まで至り、東郷大将指揮の艦隊に追撃され、不利と見てとった露艦中将「ロセ・ストピンスキー」は士卒700余名を集めて最後の悲壮な声明を発した。 <br /><br />国際場化した鬱島、悲壮なる露艦の最後 <br /> 今や囚われの身となる以上は○○はこの島に上陸し、船まで日本に取られるのはできないから、引き上げることができない場所(深さ九十余尋)へ○○爆破して沈没させ、全責任を負って、国家に捧げた身○○○○将校たちは沈没する艦と運命を共にしよう。そして金や貴重品は朝鮮人たちに与えよ ――このような悲壮な決心を語り最後を迎えたのがこの場所だ。その当時、正金が入った櫃(ひつ)を朝鮮人に○○○○○○○○○○○○海に投げたという話がこの島では盛んに語られる。 自らの手で爆破した沈み行く船と運命を共にした彼らの悲壮なる決意!、国際場化した鬱陵島! その船を奪われないようにしたが故にその船はバルチック艦隊の精華であり、また、数百万の正金櫃(ひつ)があるといい、昨今、日本海軍省では福井少将に命じて○○○○研究中だという。 <br />(島嶼巡礼 鬱陵島方面(九)東亜日報1928.9.9)<br /><br /><br /><br /><br />2010.05.18Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-88846900027610310372010-05-17T22:25:58.235+09:002010-05-17T22:25:58.235+09:00皆さん余りコメント出来なくて申し訳ありません。少しずつ体制が元に戻りつつあるので、これからもよろしく...皆さん余りコメント出来なくて申し訳ありません。少しずつ体制が元に戻りつつあるので、これからもよろしくお願い致します。<br /><br />Makotoさん<br /><br />韓国側は小中学校の教科書に竹島が明記されたことに相当焦っているのでしょうね。たしかVANKは大学生を海外に派遣するように聞きましたが、日本にもいらっしゃるのでしょうか。いずれにせよ、あの保坂氏では、日本にとってはそんなに悪い知らせではないかもしれませんね。それにしても北朝鮮から哨戒船が魚雷攻撃されたかもしれないのに、なんとも暢気な話です。<br /><br />ところで李漢基論文、英語訳ならありますけど。<br /><br />chaamieyさん<br /><br />面白い記事をご紹介頂き、有難うございます。日本海海戦の記録とあわせて調べると面白いかもしれませんね。Kaneganesehttps://www.blogger.com/profile/15533339719864245857noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-38993522488023002102010-05-17T20:53:11.318+09:002010-05-17T20:53:11.318+09:00李漢基『韓国の領土』(1969年)は、竹島が韓国領である理由をSCAPIN 第677号を根拠として
...李漢基『韓国の領土』(1969年)は、竹島が韓国領である理由をSCAPIN 第677号を根拠として<br /><br /><b>「しかし上記のSCAPIN 第677号第6項は、連合国が日本の領土の処理に関して、決して何も決めなかったということではない。ただ最終的決定ではないということだけである。実質的に独島を含んだ諸小島の帰属を明確にしながらも、ただその後の連合国がこのような決定を修正することができる可能性を留保したに過ぎない。それゆえ若干の諸小島が日本に返還され、若干の島嶼に関する残主権も認められたのである。<br /> しかし一応分離が確定された独島に対しては、その後如何なる措置も取られたことはない。日本領に帰属させるという積極的決定もなく、また独島に対する日本の残存主権を認めるという宣言もなかった。<br /> したがって独島はSCAPIN 第677号によって日本領から分離したそのままの状態で、対日平和条約の締結を迎えたのである。このように見る時、対日平和条約が独島を日本領域に含めるという積極的規定を置かない限り、やはり独島は対日平和条約でも日本領からの分離が確定しているものと考えなければならない。」</b><br /><br />と説明しているのだそうです。<br /><br />私はこの主張を引用してくれた金学俊さんに感謝します。なぜならば、これ突っ込みどころ満載ですもの。国際法の常識を超越した、いや無視したと言った方がいいかな、ともかく「嘘つくな!!」と言いたくなるような主張を展開してくれています。<br /><br />ただ困ったことに李漢基さんは韓国の国際法学会で大変重きをなしている方のようなのです。金明基『独島と国際法』の仮訳本を読む機会があって、無茶苦茶言っていると思ったのですけれども、その根源は李漢基にあると言ってよいでしょう。このほかにも韓国に不利な国際法は無視してもかまわないというようなことも言っているようなのです。そんな主張は論外でしょう。まずは彼の主著である『韓国の領土』で隠蔽・捏造・歪曲されている部分がないか調べてみたいです。とはいえ、ご案内のように私は韓国語の読み書きができません。『韓国の領土』の邦訳在り処を御存知でしたら御教示いただければ幸いです。<br /><br />2010.5.17Makotohttps://www.blogger.com/profile/02528932854910517750noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-22055963153987000102010-05-17T07:40:04.745+09:002010-05-17T07:40:04.745+09:00Chaamieyさん
これまた面白い資料ですね。
陰暦4月25日は陽暦で何日になるのでしょうか?...Chaamieyさん<br /><br />これまた面白い資料ですね。<br /><br />陰暦4月25日は陽暦で何日になるのでしょうか?<br /><br />日本海海戦後のロシア艦でしょうかね。<br /><br />このときは鬱陵島に日本の警察官もいたと思いますが、そちら側の報告もあるかもしれませんね。<br /><br />ロシア人とは何語で意志を通じたんでしょうか?<br /><br />その後官憲は鬱陵島に送られたんでしょか?<br /><br />それにしてもこの情報が8月になって新聞にのるというのも、ずいぶんのんびりした話ですね。中央政府への報告自体もこんなにおそかったんでしょうか?Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-83823893760564467242010-05-17T00:49:42.506+09:002010-05-17T00:49:42.506+09:00些か旧聞になりますが、VANKと世宗大学独島総合研究所が提携して「独島は韓国領」と触れ回るんだそうで...些か旧聞になりますが、VANKと世宗大学独島総合研究所が提携して「独島は韓国領」と触れ回るんだそうです。<br /><br /><a href="http://www.wowkorea.jp/news/japankorea/2010/0422/10069857.html" rel="nofollow">http://www.wowkorea.jp/news/japankorea/2010/0422/10069857.html</a><br />--------------------------------------<br />【ソウル21日聯合ニュース】インターネット上で外交活動を行う民間団体「VANK」と保坂祐二教授率いる世宗大学独島総合研究所が、日本国民を対象とする独島(日本名:竹島)PRに乗り出す。<br /><br />VANKの朴起台(パク・キテ)代表は21日、日本政府による小学校教科書独島わい曲の波紋に対抗するため、両機関が力を合わせ、本格的に日本と日本国民向けに独島PRを展開すると述べた。朴団長と保坂教授は同日に業務協定を結んだ。<br /><br />協定によると、独島総合研究所はことしから年2回、日本人と外国人に独島が韓国の領土であることを伝える国際学術誌を日本語と英語で発行する。VANKはこの学術誌に掲載された論文をウェブマガジンとして発行し、日本国民と全世界に広める。<br /><br />研究所は、4万人のVANK会員が国際社会で日本人や外国人に会った際に独島は韓国領土だと学術的に説得できるよう、さまざまな資料を支援する。保坂教授はVANK会員を対象に特別講義を行う。<br /><br />また両団体は、日本人が独島について体系的に理解できるよう、さまざまな教育用広報資料を開発する。VANKの日本語ウェブサイトを介し、これを積極的に広めていく計画だ。<br />--------------------------------------<br />「学術的に説得できるよう、さまざまな資料を支援する」んですか。そんな資料あるのでしょうか。どんな資料を持ち出してくるのでしょう。楽しみです。<br /><br />2010.5.17Makotohttps://www.blogger.com/profile/02528932854910517750noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-14779626764281483962010-05-16T23:05:32.893+09:002010-05-16T23:05:32.893+09:00鬱島公報
鬱島郡守沈興澤氏の報告によれば、郡の郷長田在恒からの報告で、陰暦4月25日に鬱陵島の前の...<b>鬱島公報</b><br /> 鬱島郡守沈興澤氏の報告によれば、郡の郷長田在恒からの報告で、陰暦4月25日に鬱陵島の前の西南の大洋遠くから大雷声が聞こえてきた。日没後には雷火が次第に道洞の前洋に近づき、大砲連射のようであった。しばく静かになった後、深夜に到って一隻の大兵艦が 島の前に来て碇泊し、乗員が順次上陸して来た。夜の闇のために日本かロシアか分からなかったが、近づいて見るとロシア兵であったとの急報が届いたので、現地に行き事情を確認しようとしたが言葉が通じず、要領を得なかった。<br /> 翌日明け方にロシア兵が多数上陸した後にそのロシア艦は前洋を少し後退して自沈し、陸に上がった艦長一名、副艦長一名、軍卒774人は白旗を揚げて降服の意を表していたが、同日巳時ごろに日本の兵艦一隻が苧洞に来て、降服したロシア兵たちを乗せて去って行ったという。<br /><br /><a href="http://www.mediagaon.or.kr/jsp/search/SearchGoMain.jsp?go_code=L&gid=HSS19050810u00_ITEM_012" rel="nofollow">皇城新聞 1905年8月10日</a><br /><a href="http://gonews.kinds.or.kr/OLD_NEWS_IMG3/HSS/HSS19050810u00_02.pdf" rel="nofollow">画像はこちら</a><br /><br /><br /><br />2010.05.16Anonymousnoreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-55826503264625635952010-05-14T02:36:20.651+09:002010-05-14T02:36:20.651+09:00第二次日韓協約とは韓国の外交権を日本に委譲することを是とした条約だ。日本側代表・特命全権公使林権助と...第二次日韓協約とは韓国の外交権を日本に委譲することを是とした条約だ。日本側代表・特命全権公使林権助と韓国側代表・外部大臣朴斉純が調印している。韓国では全国民一丸となって反対したのに日本が軍事力を背景に締結を強要したのだから、この条約は無効だとされている。しかし最近の研究、たとえば原田環「第二次日韓協約調印と大韓帝国皇帝」(『青丘学術論集』24、韓国文化振興財団、東京、2004年4月)によれば、高宗はこの条約の締結を推進していたことが明らかになっている。ところが条約締結後、一転して高宗は反対運動を煽動した。脅迫によって結ばされたと言いだしたのだ。高宗の目論み通り反対運動の火の手があがったのだが、伊藤博文大使との内謁見で伊藤が高宗の主張を受け入れると今度は条約反対派を抑圧したのだ。この迷走した対応が今日に至るも混乱を招いている。いや、出鱈目な対応をしたことを逆手にとって反日運動につなげていると見えなくもない。<br /><br />国の代表者を恫喝して締結を強要した条約は無効との国際慣習法があることから、高宗が仕掛けた反対運動を真に受けた人々は、今もこの条約は無効だとしているし、この条約を土台としている韓国併合条約も無効だとしている。そして竹島の日本への編入を「日帝による強占の最初の犠牲」と喧伝しているわけだが、朝鮮による国家権能の平和的かつ継続的な表示を伴う支配を受けていない竹島が、日本軍による暴力的な強奪の犠牲であるわけがない。日本が強奪したというのなら、朝鮮が支配していた証拠を示すべきだ。しかしそのような証拠が示されたことはない。示されたのは「于山島こそ独島だ」という認識だけだ。<br /><br />2010.5.14Makotohttps://www.blogger.com/profile/02528932854910517750noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-80570314255776296012010-05-13T12:46:28.033+09:002010-05-13T12:46:28.033+09:00Old Pro Jo sounds like a broken record and every t...Old Pro Jo sounds like a broken record and every time I hear his tired old rants I really wanna puke. His keeps repeating the same old garbage. Japan’s annexation of Dokdo was not aggression because Korea didn’t own the island at the time.<br /><br />The issue of Korea’s historical title and Japanese colonization are separate. Even without proof of Korean ownership prior to 1905 Japan’s claim falls apart.<br /><br />Professor Shimojo is trying to be cunning by shifting Korea to prove title to Dokdo when Japan has none of their own. He is the typical Japanese right winger who denies Japanese aggression in Northeast Asia in 1905.<br /><br />However we know the truth about Japan’s annexation of Dokdo.<br /><br />First during the Russo~Japanese War, in Sept 1904, the Japanese warship Niitaka reported Russian warships near Dokdo.<br /><br /><b>http://www.dokdo-takeshima.com/japans-takeshima-x-files-i.html</b><br /><br />Next the Japanese warship Tsushima surveyed the Dokdo for military watchtower construction and telegraph lines. The report was submitted to <br /><br /><b>http://www.dokdo-takeshima.com/japans-takeshima-x-files-ii.html</b><br /><br />From these military needs the Japanese government pushed through Nakai Yozaburo’s application to lease Dokdo .<br /><br /><b>http://www.dokdo-takeshima.com/japans-illegal-1905-annexation-of-dokdo.html </b><br /><br />We know the truth about Japan’s annexation of Dokdo, Pro Mojo. Keep denying the past, we love making you look foolish!!김모씨https://www.blogger.com/profile/05052162596562064525noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-26948035.post-88219244628927947592010-05-13T05:40:09.619+09:002010-05-13T05:40:09.619+09:00産経新聞によれば「韓国の中・高校『竹島』」教育強化 歴史教科書の記述増やす」のだそうです。「日本へ独...産経新聞によれば<a href="http://sankei.jp.msn.com/world/korea/100512/kor1005122017004-n1.htm" rel="nofollow">「韓国の中・高校『竹島』」教育強化 歴史教科書の記述増やす」</a>のだそうです。「日本へ独島が不法編入された不当性と、独島と関連して正しい歴史観と主権意識を身につけられる内容を明示した」と韓国・教育科学技術省は説明しているようですが、何を教えようというのでしょうか。「不法編入された」という以上、韓国は日本による編入以前に国家権能の平穏かつ継続的な表示を伴った占有があったことを証明しなければなりませんが、そんな事実はありません。「独島教」のお題目をいままでよりも多く唱えさせるのでしょうか。それは歴史の歪曲を拡大再生産するだけですね。日本政府は直ちに抗議すべきなのですが、わが政府は……。<br /><br />領土紛争解決の枠組みは国際法です。それによれば韓国の主張にはまったく理がありません。一方、1905年の日本の編入は合法ですし、第二次世界大戦の講和条約であるサンフランシスコ条約でも竹島を放棄していません。同条約の第二条は日本が放棄する領域を列挙しているのですが、そこに「竹島」と記されていないのは、条約を解釈する方法を規定しているウィーン条約に則って読む限り竹島を放棄していないということです。すなわち竹島は日本領と規定していることになります。そしてその妥当性はラスク書簡をはじめとする資料により裏付けられます。<br /><br />カメルーン・ナイジェリア間の領土・海洋境界画定事件で示されたように「条約上の根拠がある場合には実効的占有に基づく主張に優越する」ので、仮に韓国の歴史的権原や実効的占有に基づく主張に根拠があったとしても、サンフランシスコ講和条約において竹島が放棄されていないことが示されている事実は韓国の主張に優越し、竹島が日本領であることを強く裏付けるものです。しかし、対立を回避することばかり考えていては韓国の支配を黙認したものとみなされ優位性を失ってしまいかねません。そればかりか日本は筋を通す国だという姿を見せないならば、ロシアや中国が高飛車に出てくることも考えられます。そこまで見据えて対応すべきです。<br /><br />韓国は「紛争なんて存在しない」として交渉にも応じようとしていませんが、紛争の存否は、客観的に判定されるものであり、紛争当事国の一方が「存在しない」と言えば紛争がなくなるわけではありません。最近では「カメルーンとナイジェリアとの間の陸地および海の境界に関する事件」の先決的抗弁に関する判決(1998.6.11)で、国際紛争の存否は客観的に判断されるべきことが確認されています。このことは国際司法の場で度々指摘されており国際慣習法として確立しているといえます。このことも前面に押し出して日本政府は対応すべきだと思います。<br /><br />いずれにしても葛藤を懼れて消極的な対応に終始していては問題解決に繋がらないことだけは確かです。<br /><br /><br />2010.5.13Makotohttps://www.blogger.com/profile/02528932854910517750noreply@blogger.com